昨日に引き続き、嫌悪感について考察を深めていく。まず前の話を簡単にまとめておこう。
嫌悪感とは特定の対象に対して生じる強い拒絶感であり、それによって対象から即座に逃げる行動を促すための反応だというところまで、たしか解説をした。
この脊髄反射的な感情は、攻撃とも防御とも違う防衛反応として、生存のために有利に働いてきたからこそ、今もまだ本能に残されているのだろう。
そしてこの嫌悪感を活用する方法は、特にないと思えてくる。三島由紀夫氏もインタビューで、「自己嫌悪は本当に生産性が無い」みたいなことを言っていたように。
ただ、実は嫌悪感を”細かく”観察することで、あることの理解が深まる可能性があると僕は思う。それは、自分の価値観や芯と呼ばれる部分だ。
今日はそれについて、また考察を深めていこう。
嫌悪をさらに大分する。
ここも研究が進んでいることに驚いたが、嫌悪感は”何をどう”対象にするかによって、大きく2つの種類があるという。
まず1つ目が「原始的嫌悪」と呼ばれるものだ。これは大半の人が苦手とする対象に対する嫌悪感のことで、例えばクモや蛇といった生物に対するそれと言える。
これは生物としての本能的かつ普遍的な嫌悪感であり、掘り下げても特に新しい発見は得られにくい。蛇が嫌いな理由に、特に固有の哲学は宿らないのだ。
もう1つが「道徳的嫌悪」と呼ばれるもので、人間っぽいのはこちらの方だ。これは共同体のルールや社会の基準から外れた行動に対する嫌悪感であると言える。
具体的には、周囲の人がルールに従わないことや、社会的に許されない行動を取ることへの不快感を指す、と思うと良い。そして深く分析するべきは、こちらの嫌悪感だ。
容姿やファッションを含めた、他者への言動や振る舞いに対する嫌悪感には、恐らく「自分の価値観」が多分に反映されている。
自分が大事にしていること、当たり前だと思っていることを思い切り無視するような他人や環境に対しては、僕もそうだが強い嫌悪感を抱きやすい。
自分の内にある理想と比較することで、道徳的嫌悪は生じる。つまり大なり小なり、その嫌悪が教えてくれているのは、あなた自身の価値観なのだ。
原始的嫌悪は正直無視してもよいが、道徳的嫌悪は、かなり面白い自己分析の対象になる。もちろんこれも、ChatGPTとの対話の中で気付いたのだが。
例えば僕の場合は、周囲に配慮しない人に対し、特に強い嫌悪感を覚える。夜遅くに大声で笑うバカがいると、迷惑って言葉を知らないのかと、途端に不快になる。
矢印を自分に向けよう。これは同時に、僕が「周囲に配慮する」とか、「和を尊ぶ」といった価値観を、とても大切にしているからではないかと思い至る。
協調を重視するというより、自分の配慮一つで周りが快適に暮らせるのなら、幸福の総量は増えるだろうという思い。それをせず、善意にただ乗りするヤツはクソである。
そんな一面が垣間見えて、僕のことなのに、僕自身がかなり驚いたのをまだ覚えている。
ということでまとめよう。嫌悪感とは本能的な感情であるが、原始的なものと道徳的なものに分けて考えることで、違いがさらに見えてくる。
特に道徳的な嫌悪感(他者や環境へのそれ)の方を掘り下げてみると、自分が絶対に許せないと思える何かが見えてきて、自己理解を深めるためのヒントになるといえる。
ただ単に、嫌悪感を抱く対象を避ければいいというわけではない。実はもう一歩深めて考えると、嫌悪感をさらに有意義に分析できるということなのだ。
そして、その内省には、更にもう一歩深い観点や基準があると僕は思っている。ということで明日は、その方法について述べたいと思う。
では今日はこの辺で。