一旦これで最後になるが、この記事で嫌悪感についての話を締めくくりたいと思う。こんな風に全部で三部構成に収まったのは、我ながら意外なコンパクトさだと感じる。
これまでの話を簡単にまとめると、嫌悪感とは特定の対象に対して、思考をすっ飛ばし、「逃避」という行動を引き起こすための防衛本能の一つだと考えている。
そして、特に強い嫌悪感を抱く対象には、大きく分けて二つの特長がある。第一の特長は、生物としての本能に刷り込まれた原始的な嫌悪感だ。
具体例としては、誰もがクモや蛇を気持ち悪がる、あの感じだと思ってくれればいい。或いは集合体恐怖症等も、多分これに該当するだろう。
第二の特長は、自分が身を置く社会やコミュニティの基準や文化と比較して生じる、道徳的嫌悪感である。
例えば、道端にゴミを捨てる輩に「うわっ・・」という不快感を覚えるのは、「道路にゴミを捨ててはならない」という社会的な暗黙の了解ゆえ、と言い換えられる。
さて。結論に当たる今回の話では、ここまでの話を踏まえたうえで、この嫌悪感をどう活用していくか、という点をさらに深く掘り下げてみる。
嫌悪感の声に耳を傾けてみよう。
まず、丁寧に分析すべきなのは、道徳的嫌悪感だ。原始的嫌悪感は、クモや蛇を不快に思うような本能的なものであり、深掘りしてもあまり意味がない可能性が高いためだ。
一方、道徳的嫌悪感は時や場所、つまり文化圏によって容易に変わり得るものであり、こちらの方に、自分の内面を深掘りするヒントが多分に含まれていると言える。
例えば、家の中で靴を履くことは日本だと嫌がられるが、海外では普通である。このように、道徳的嫌悪感は環境によって変わりやすく、ゆえに考察する余地が大きい。
そしてこの道徳的嫌悪の方だと判断できたあとは、続けてそれがなぜ嫌なのか、その理由を言語化して説明できるかどうかを考えてみるとよい。
もしそれを論理的に説明できるならば、それは自分の価値観や信念、メンタルにおいて重要な部分であると言える。自分にとって許せないものも、大事な価値観だからだ。
こうした明確な根拠や納得がある嫌悪感は、そう簡単に変わらないし、僕としては変える必要もないと思っている。自分の芯に当たる部分は、それ自体、受容した方がいい。
一方、なんとなく嫌いだがその理由が言葉にできない場合は、逆にその対象について深く学んで知ってみるのも、建設的なアプローチとなる。
自分事としても思うのだが、そのような漠然とした嫌悪感は、単にその対象について無知であることへの不安や、根拠なきネガティブな印象に過ぎないことが多いためだ。
一つ僕自身の例を述べてみる。僕は白状すると、神が二物も三物も与えたような天性の才能の持ち主が、ずっと苦手だった。簡単に言えば、高学歴美女とか、である。
よくわからないが、あまりにも人間として格上過ぎて、僕の自分の弱さ、醜さ、至らなさが強いコントラストで浮き彫りになると思っていたためだ。我ながら超キモい。
しかし、更にそこへ「なぜ?」と問いかけると、自分が答えに窮することにも気付いていた。旧帝大出身の友人も、実際にチラホラいるが、彼ら彼女らに劣等感は覚えない。
だから試しに、客観的に見ても才色兼備な方のエッセイ集を手に取って読んでみた。その内面を知ることで、何か自分の思考のコリが解れることを期待してのことだ。
するとその効果はてき面だった。例えばその人は、絶望的に運動ができないことを悩み、志が高い同級生に嫉妬し、男子に弄られて怒ったり、ちゃんと人間だったのだ。
と同時に、自分の才能の部分や過去の栄光だけ喧伝したり披歴したりするタイプは、どれだけステータスがあっても人間として器が小さいんだなと改めて納得した。
僕自身の意味不明な嫌悪が薄れ、多角的な人間理解に繋がると同時に、自分がどうしても嫌悪感を抱く人物の説明も補強された、面白い一例だと個人的には思っている。
こんな風に、理由のない漠然とした嫌悪感を持つ対象については逆にじっくりと学んでみることで、自分のいわば狭量な部分の価値観が180度変わることもある。
この経験から、論理的に説明できる嫌悪感は自分の信念として理解し、逆に言葉にできない嫌悪感は、しっかり学んで知ることで、新たな視点を得られると僕は納得する。
ということでざっくりと改めてまとめておく。嫌悪感には、原始的なものと道徳的なものがあり、道徳的な嫌悪感は、更に理由の言語化の可否を考えると、話が深まる。
仮にきっちりと理由が説明可能であれば、それは自身の確固たる価値観として理解でき、逆に曖昧な場合は、ただ無知なゆえの偏見が原因かもしれないのだ。
ゆえに、”あえて”それを学ぶことで、その認識が綺麗に変わるかもしれない。逆にもっと嫌いになることもあるだろうが、それはそれで、一つの自己の価値観の理解である。
嫌悪感についてここまでじっくりと考えを深めたことで、僕自身もこの感情を以前よりかなり肯定できるようになって、とりあえず満足している。
ということで全三部の話、今日はこの辺で。