僕は論理的な考え方が好きだと言っておきながら、実は「演繹」と「帰納」の違いがよく分かっていない。正確には、定義を読むたびに納得するが、すぐ忘れてしまうのだ。
とりあえず納得しているのは、「演繹」も「帰納」も、何かしらの説得力ある結論を導くための方法である、ということくらいだ。
つまり働きとしてすごく似ているからこそ、具体例を見れば「表面の理解」はできるのだが、「差異」を考えた際にそこが分からず、結果記憶に残らないのだと思う。
てことで今日は、その辺りがしっかり腹落ちするまで色々とChatGPTと問答してみたので、その話を以下まとめておく。
つまり、この2つは何がどう違うんじゃい。
【図解】帰納法と演繹法 ~どっちがどっちか混乱する推論法~|阪口なぎさ
まず、「演繹」と「帰納」の違いについて、ネットで調べたらすぐに出てくるレベルの定義からおさえておく。まずは「演繹」から。
演繹とは、ある前提が正しければ、その前提に基づいて絶対的に正しい結論を導く方法です。
たとえば、「すべての人間は死ぬ」という一般的な前提があるとします。これに続けて「ソクラテスは人間だ」という前提が成立していれば、「ソクラテスも死ぬ」という結論に必然的に至ります。
前提が正しい限り、結論も必ず正しい、という絶対的な力を持つのが演繹です。
続けて、「帰納」の定義も引用する。
一方で、帰納とは、多数の具体的な事実や観察結果から全体的な傾向やパターンを導き出す方法です。
たとえば、ある研究で「A地区でリンゴを食べる住民は健康である」というデータが得られたとしましょう。
このことから「リンゴを食べると健康になる」という全体的な結論を導くことができます。
これだけ読むと、なんとなく「分かった感」は得られるのだが、すぐにまた一つの疑問に行きつく。事例・前提を基に論を進めるという意味では、2つは同じではないかと。
演繹も帰納も、問いの起点があり、そして結論に向かって積み重ねの果てに答えを出すという意味では、構図に違いを見受けられない。これが僕の理解を阻んでいると思う。
それをChatGPTにぼやいてみると、それ自体には同意を得られたうえで、更に細かい違いについて教えてくれた。そしてそれを読むと、僕の中で遂に合点が行った。
演繹は出発する前提が正しければ、それによって得られる結論も揺るがない「強い論理」を生み出す方法です。
演繹が「絶対的に正しい結論を導く」方法であるのに対し、帰納は「大体の傾向を探る」柔軟な方法と言えます。
演繹に求められるのは、前提を認めたら例外が発生しようもない程の強さ。これは「論理トレーニング101題」でも触れられていた定義だ。
僕が頭に浮かべたのは、数学の証明、三段論法、物理公式を用いた計算等なのだが、これ自体は具体例としてすごく妥当なのだという。
そして帰納は、プロセスは似ているが、その結論が幾分弱い(例外の存在や、論自体の更新も十分にあり得る)点に、一番大きな違いがあると言える。
僕がこのときに頭に浮かべたのは、いわゆる社会科学の調査、フェルミ推定、生物観察による生態の研究、といったところだ。一点に絞るのではなく、大体を得る、と。
こうして考えれば、例えば僕らが質問の回答として返すもののほとんどは「帰納」であり、「演繹」で物事を考えたり説明したりすることはほぼ無い、と思えてきた。
だからこそ、帰納の論拠の部分、導出の流れにはよく疑問や質問が挟まれるのであって、そこをピックアップしてまた取り上げるからこそ、アイデアは練られると言える。
これを踏まえると、自分が語っていることは演繹なのだと思っている人がいたら、今後僕は、多分”痛々しさ”を覚えるだろう。
データに基づいた話ならまだしも、主観・経験・その人の周りの社会の一般論から出されたものは、どこまで行っても帰納なのだ。それ自体は別に悪いことじゃない。
ちなみにChatGPTによると、「俺が絶対そうだと思うから」で出発する論理は、演繹でも帰納でもなく、ただの「思い込み」とのことだった。これには少し笑ってしまった。
論理学の観点では、客観的な前提が不可欠。演繹も帰納もそこを前提として、絶対性があるか、そうではないかというところが異なっていく。
なるほどなぁと、とりあえず今は強く得心している。では今日はこの辺で。