人は未知のものに対して不安を覚えるという。そういう意味では不安と好奇心は実は似たベクトルの感情であることを、先日どこかの記事で書いたのをまだ覚えている。
逆に言えば、「これ知ってるなぁ」「あれと似ているなぁ」という感覚を抱ければ、人はその対象に不安をほぼ覚えなくなるという話もよく耳にする。
そして今日、このことを実体験する機会がたまたま得られて、この考えは本当にそうなんだなぁと、そう納得している次第である。
今日はそれをなるべく言葉にすることで、どうにかしてもっと再現性を持たせたいなと、そんなことを考えていく。
”似ている”を閃く。

僕は面談や電話など、オンタイムで他者と真面目なやり取りをする場面が未だにすごく苦手だ。これは心理的なものが強く、実際は和気藹々と進むことが多いのだが。
授業もまたそれに近い構図のはずなのに、そちらで緊張を覚えることは最近全くない。単に人見知りなのか、或いは自分の中でまだ場数が不足しているだけなのだと思う。
今日もまた、今までにないコンセプトの面談が予定されていたので、前日から密に情報を集め、構成を考えて、緊張しながら寝て、だいぶ一生懸命備えて臨んだ。
なんとかその面談は上手くいったのだが、それが終わって油断していたら今度は退塾話からの別の面談の予約や、電話での緊急アポが連発し、本当に泡を食いそうであった。
ただ、このときふと、自分の不安や緊張や焦燥がどんどん減っていく感じも、同時に実感している。段々と感情が乗らず、事実とか出来事とか、単なる仕事になるように。
そして、「何か似た経験を俺はしたことがある」という感覚も、同時に生じた。それは何だろうと思っていると、すごく面白いところからその答えを閃いた。
それは怪我した箇所を久しぶりに動かすときの感じだ。実際僕は骨折や、三針縫う怪我などによって、患部を2~3週間動かせない時期が人生で2回あった。
その部分を久しぶりに動かそうとすると、緊張するし、不安も覚える。何より実際に最初は痛いため、動かすこと自体が本当に辛いと思ってしまうのだ。
だが、それも最初だけだ。動かしていく内に関節と筋肉が解れていき、次第に元の可動域を取り戻し始め、そして段々と初めにできていた動作ができるようになっていく。
そして機能を完全に取り戻してしまえば、自分が一体どんな痛みを覚えていたのか、そもそもどこがどう痛かったのか、それすら記憶の彼方に消え去ってしまうのだ。
この構図は、本当にさっきの面談に対する謎の不安や恐怖の例と似ている。となれば、以後自分が似たような悩みや不安を覚えているときに、このアナロジーは使える。
「これは怪我した箇所を動かすときにちょっとした恐怖を覚えるのと同じ、だから最初の痛みさえ乗り越えればなんてことないさ」と己に声掛けをする。
そして実際にそれが過ぎ去ってしまった後の「なんともない」感じもきちんと振り返って言語化する。こうして僕の”コリ”は解れていくのだろう。
もう一つ気付いたことがある。それは、面談や電話が連続すればするほど、確かに不安や緊張は緩んでいくが、時間が空けばそれはまた復活してくるという点だ。
こういったガッツリとした面談の場は、大体半年に1回の周期でやってくる。この半年のスパンの間に勘や経験が鈍ることから、僕は都度リハビリの痛みを覚えるのだろう。
そう思えば、こういう風に自分へ優しい声掛けをするのも大事だけれども、そもそも日頃から簡単なトレーニングみたいなものを設けた方が、建設的かもなとも気が付いた。
ただ、それはまた別の記事にまとめようと思う。では今日はこの辺で。