精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

”苛立ち”はかなりいい加減なので、気を付けてください。

今日は苛立ちという感情について考察してみる。というのも、僕自身実はイライラしやすい性格であり、特に朝にその感情が強まる傾向があるからだ。

 

とはいえそれは具体的な他者に向けた感情の発露ではなく、むしろその9割は、自分に向けた苛立ちだ。僕はよく、僕に腹を立ててしまう

 

例えば、準備や時間が不足している感覚や、未完了の仕事が存在していること自体にイラつくことが多い。それによって、自分は未熟であると責める感じだ。

 

しかしここを丁寧にほぐしていくと、その苛立ちはかなりいい加減なことを僕に投げかけていることに、最近気が付いている。真の問題は、もっと根っこにあるというか。

 

今日はそんなお話を書いてみる。

 

 

”苛立ち”はかなりいい加減なので、気を付けてください。

正論を指摘されて怒る人の理由とは? 「怒り」という感情は、いつ・なぜ生まれるのか|新R25 Media - シゴトも人生も、もっと楽しもう。

 

感情についての分析を過去色々調べたが、それらによると、苛立ちとは「怒り」から一段階薄めた、いわばファジーな感情だと説明されていた。

 

しかし”弱い怒り”ということは、性質としては同じとして考えても良いはずだ。そして「怒り」という感情が生じるとき、実は意識の在り方に一つ傾向があるという。

 

それは、怒りとは自分の大切なものが脅かされている時に生じる、というものだ。ゆえにこの視点で考えると、怒りを分析すれば、自分の大事なものが分かる、となる。

 

これ自体は理論的にすっきりしていて、かつ建設的な考え方に違いはないのだが、実際にそれを”正しく”突き詰めていくのは容易ではない

 

苛立ちは、本当は僕がどうして苛立っているのかをすっ飛ばして、ムカムカイライラといった感情を想起させるものだからだ。即ち、実態がとても見え辛い。

 

例えば、僕が苛立つ原因として、「時間がない」「準備ができていない」「仕事が終わっていない」といった事象が挙げられる。

 

しかし、「ではそれらが解消されたら、僕の苛立ちは霧散するか?」と自分に問うてみたら、必ずしもそうではないことがほとんどなのだ。

 

例えば、仕事が終わったら終わったで新しい仕事を見つけていない自分に苛立つだろうし、準備が出来たら出来たで、また別の準備をせねばと苛立つ自分が透けて見える。

 

つまり、苛立ちの元を断っても、どうせまた別の理由でイライラする自分がいるのだろうと、ヘンな風に強く納得感を得てしまうのだ。

 

すなわち上記の苛立ちの理由はとてつもなく表面的なものであり、問題の本質はもっと別のところにあるように思えて仕方がないのだ。

 

では僕はなぜ、そういった”不足”を感じる場面において、自分に対し強い苛立ちを覚えてしまうのだろう。しばらく考えてみると、ある”情けない”仮説に辿り着いた。

 

それは、僕はまだ心のどこかで、今のうだつが上がらない自分から進化した「完璧な自分」という理想像を信じているのではないか、というものだ。

 

パラレルワールドではなく、今ここにいる僕は、大きな伸びしろを実は残していて、それが能力の開花と周囲からの賞賛という形で結実する未来を信じているのではないか。

 

だとしたら、その理想像から程遠い自分の有様を体現すればするほど、その理想像が脅かされるから、苛立ちを覚えるという感覚にすごく繋がりを見出せてしまう。

 

理想の僕とは、仕事ができ、時間に余裕があり、準備万端はいつも完璧な自分だ。現実の僕がそれとは程遠い言動を取る度に、苛立ちを覚えているのだとしたら。

 

・・・僕は自分をプライドのない人間だと思っているが、内面ではむしろその逆、実はプライドの塊なのだと納得するしかない。

 

苛立ちとは攻撃性のことだ。それが覆い隠していた本性の僕は、かくも無力で、こうも無責任なのかと、自分のことなのに嘆息が止まらない

 

弱い犬ほどよく吠えるという皮肉を、僕はその通りだと思っている。だが、弱い犬は、自分に対してもよく吠えるらしい。この発見は、なかなかにパンチが効いている。

 

暫定解を出す。この理想像に縛られて、器の小ささや寛容さの欠如を自分で認識しつつ、それを克服できていないのが、根本的な苛立ちの原因なのだろう

 

理想の自分像に固執することが、結果的に不健全な感情を生み、無意味に自分を追い込んでいる。恐ろしいことに、そのことに僕はずっと無自覚だった。

 

もちろんだからといって、理想の自分像を弊履の如く完全に手放す必要はないが、そんな理想とは、「”自分を含む”誰にとってもどうでもいい」ことは改めて認識したい。

 

この気づきを通じて、いい加減僕は自分の理想と現実に折り合いをつけることで、少しずつ心の安定を取り戻していきたい。そう思えた。

 

では今日はこの辺で。

 

 

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