最近毎日、予定表を見ては絶望する。死にたくなるといっても過言ではない。それはなぜかというと、一部の隙も無く予定が詰まっているからだ。
教育業界あるあるだが、この時期は主に面談といって、お家の方と現状の様子を確認し合い、話を聞き、今後の取り組みなどを話し合う場が組まれてくる。
それがイレギュラーで発生し、元々あったはずの空き時間を潰して予約を取りまくっているので、アウトプット過多に陥りなかなかにハードだ。
そして元々予定されている授業も当然あるので、単に仕事の間隔がひたすらに圧縮されただけだ。もちろん休日も消えることが確定したので、なんをかいわんや、と。
こうやって狂奔ともいえる状態に身を置き続けると、精神や神経の削れてはいけない部分まで摩耗し始めているかのように感じる。これは良くないのではないか。
個人的には身を削るより精神を削る方が圧倒的に不健全だと思っているがため、猶更だ。とはいえ、だからそれを踏まえてどうするかという具体策を考えていなかった。
そんなときにふと閃いたのが、「ぼーっとする」というただそれだけだ。これをもっと僕は日常に取り込み、そして愛でるのが良いのではないか。
今日はそんな、アウトプットしすぎて頭がおかしくなったのかと思われるかもしれない駄文を、つらつらと書いていこうと思う。
なにも かんがえ ない
何も考えないことはとても難しい。何も考えないようにしようと思って「なにも考えちゃだめだぞ、俺!」と思った瞬間、そのことを考えている自分に気付かされる。
「何も考えようとしない」ようにすると、禅問答ではなくただ馬鹿なだけな論理になりがちだ。だからこそ「何も考えない」の定義は結構大事になってくる。
だから、色んな哲学を読んだり、他人の言葉を学んだりして、考えた。結果、僕にとっての定義は、「頭に感想を浮かべず、物事を観察すること」にしている。
ただ、眺める。そう言いかえても良い。実際に目の前にあることをただ見るのもそうだが、頭の中に浮かんでは消える、形の無い思念もまた然り、だ。
いくら忙しいとはいえ、タスクとタスクの間には、数分程度の時間が生じる。それをその都度それに充てる。カッコよく言えばマイクロブレイクである。
鼻から息を吸い、それが肺と胸郭を膨らませるのを感じる。そしてただそれを吐く。腹が萎むのを感じる。ひたすらにそれを繰り返すと、頭から言語が消えていく。
このとき活用しているのが、自然を眺めることだ。佐渡島庸平氏のnoteにもあったが、自然物の方が構造が複雑で、観察しているとそれがずっと変化し続けるのが判る。
例えばこの見出しの冒頭に紹介した、モントレー水族館のイカの水槽の様子は、その極致だと思っている。
身体の模様、遊泳位置、波打つヒレ、揺らめく海藻。一瞬一瞬が”同じ映像の繰り返し”に見えるのに、全く異なる描写が連続して一つの動画を成している。
それをただ見ていると、心が澄んでくる。時間感覚も失せてくる。ふと意識を取り戻して時計を見ると、数分”しか”経っていないことに驚かされる。
リフレッシュ効果は本当に桁外れだ。もちろんすべてが偶然にも上手くハマって作用した際に辿り着ける、いわば運ゲーではあるのだが、この時間は馬鹿にできない。
ガッツリとした休憩が無い場合も、こうした「ぼーっとした」時間を都度設けることで、それを軽減することが可能となる。だからこそ、この呆けた時間は愛おしいのだ。
明日もまた僕は、息が詰まった頃合いを見計らって、イカを見ようと思っている。傍から見れば頭がおかしくなったように見えるだろうが、実際は逆だ。
頭をおかしくしないための術なのだ。それが伝わっていたら嬉しい。では今日はこの辺で。