精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

業績が上向き始めた今、何故か感じるのは、”自分の限界”。

まだ楽観はできない状態だが、校舎長交代と同時に引き継いだ泥舟状況、ここから脱する兆しが遂に見えてきている。

 

これは好調と言っても良いかもしれない。だが、繁盛している塾にとっては「普通」の顧客増なのかもしれない。しかしそういうのは一旦全てどうでもいい。

 

このタイミングでは、勿論新規生を勿論増やしつつも、内生へのケアを怠らないことが大事になる。つまり、波に乗っていると感じるときほど、手は抜けないのだ。

 

しかし、一つ懸念がある。それは自分のメンタルだ。具体的には、僕の心身が限界に近づいていることの実感だ。それは、問い合わせに対する反応で自覚してしまった。

 

本来、問い合わせがあったことはこの上なく喜ぶべきなのだが、こないだはそれを受けて、面談を優先することでまた休みがなくなることへの負担感が先立ってしまった

 

もちろん、その感情を、声色等の表には出さないよう努めた。しかし、自分の体にのしかかる疲労感が、本来喜ぶべきことへのアンテナを鈍らせている

 

こうした状況は、放置していてはならない。好調の中で危機感を抱けるか。今日はそこに関する内省を深める、そんなお話をば。

 

 

踏ん張りどころという言葉の弱点。

 

年末年始も、小忙しい状況は変わらない。12月31日から1月2日までは休みだが、3日は本来休みの予定なものの、連休を自ら切って、仕事をするつもりだ。

 

単純に、僕の空き時間が足りないため、年始だろうが仕事を詰める以外に選択肢がない。こうでもしないと、共通テストに間に合わないのだ。

 

1月4日は休みだが、5日は早朝の仕事が控えているため、予定していた泊まりのキャンプも諦めざるを得ない状況だ。まだこれは、参加者には切り出せていないのだが。

 

―こうした状況は、自分自身の管理の甘さに起因している。意識的にそう信じている。他人のせいにする気はない。自分が自分という駒を安易に使いすぎた結果だ。

 

「僕以外では嫌だ」という評価、ご家庭からの指名は、ありがたい反面、巡り巡って無邪気に受け続けると僕の首を絞めることに繋がってくる。今がまさにそうだ。

 

これに加え、授業で埋まった日々の中でマネジメントも行い、数値での結果を出し続ける必要もある。我ながら理不尽だなと、何故か笑えてきてしまう。

 

元々僕は、講師から引退し、マネジメントに専念したいと考えている。しかし、役割が変わらないのであれば、いっそ校舎長を辞めることも選択肢に入れるべきだと思う。

 

現状、肩書きが増えただけで、仕事内容は変わっていないからだ。むしろどっちも”中途半端”になっている気がして、結果社内に暇な人を生んでいるという側面もある。

 

言ってしまえば、僕の原動力は、反骨心である。泥舟状態の校舎を引き継ぎ、それを改善することに全力を注いできた。そしてそれで、ここまでは続けられた。

 

では仮に、この状況が好転し、安定した状態になったならば、それは無条件で喜ぶべき幸福なのだろうか。少しイメージしたが、単に目的の喪失を意味するかもしれない。

 

踏ん張り抜いた先に待っている状況を、僕は肯定できるのだろうか。踏ん張りどころという言葉の弱点に気付いてしまった気がする。

 

この言葉は一種の麻薬だ。現状の辛いところ、歪んでいるところを丸呑みして受容してしまい、目を反らすことによって乗り切ろうとするための声掛けだ。

 

そのためには、仮想敵のような存在が必要になる。僕にとってのそれは、好調を意味しない。むしろ逆風というただそれだけで、頑張れてきたのかもしれない。

 

踏ん張りどころには違いないが、そのための地盤を僕は失いかけてもいる。この状況を僕は「限界」だと、潜在意識で悟っているのかもしれない。

 

【熟達論】で言うところの、目標ばかり追うことによるバーンアウト現象に、自分が至りかけているというのは意外だった。

 

次の目標と心の休息、今の僕に要るのはどっちなのだろう。

 

では今日はこの辺で。

 

 

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