ふと気になって、「正義」という言葉の対義語を調べてみた。―色々と候補はあったが、例えば「悪」や「不義」という言葉がそれに当たるらしい。
だがそもそも、「正義」という言葉自体がとても曖昧だ。これは”誰にとっての正しい義を指すのか”が、一見すると分からない。
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だから辞書を引いてみた。
1 人の道にかなっていて正しいこと。「—を貫く」「—の」
2 正しい。また、正しい解釈。「四書—」
「其実はあたの語の—に非るなり」〈・〉
3 人間の社会行動の評価基準で、そのに対しなを伴う。
これを見ると、ジマーマンがしたことは正義でもあるが、政府から見れば正義に反した行為になってしまうだろう。正義の対義語は、また別の正義というのは言い得て妙だ。
道徳というテーマにも突っ込み始めた気がするが、今週も読み進めていくこととしよう。
- 12月23日(月) 片方の正義。
- 12月24日(火) 護られるのは・・・・。
- 12月25日(水) 護りたいのは・・・・。
- 12月26日(木) 論理力を振りかざしてるつもりの・・。
- 12月27日(金) サイバー”犯罪”とは。
- 12月28日(土) 妥協案。
- 12月29日(日) 海を隔てた先の話。
12月23日(月) 片方の正義。
傍受・盗聴という言い方には、どこか軽犯罪というか、気持ち悪い行為、つまり悪いこと、みたいな意味合いが乗る。
だがこれこそ、捜査当局による正当な「調査」の術なのだ。犯罪組織による密談を聴き、未然にそれを防ぐためには、盗聴は必須の方法とも言える。
実際日本でも、二・ニ六事件のやり取りは盗聴されており、その音声はYouTubeにアップされてもいる。プライバシーの重視か、はたまたそれを制限してでも平和を取るか。
秘匿が徹底されたネットの深層部が、ダークウェブと呼ばれる犯罪行為の温床になっているのを考えると、永遠に答えはでないと思わされる。
12月24日(火) 護られるのは・・・・。

僕も知らなかったのだが、一連のオウム事件や同時多発テロにおける情報伝達や共有においては、RSA暗号などが用いられていたそうだ。
如何に国家が、例えばエシュロンのような諜報・傍受の術を持っていても、内容自体が暗号化されていたら集めても仕方がない。
暗号化技術の普及。ここには、犯罪行為がいっそうひた隠しにされるというダークサイドが隠れている。
12月25日(水) 護りたいのは・・・・。

一方、暗号を推奨する派閥としては、プライバシーは人権の根幹を成すものだ、という主張がある。
盗聴等を正当化して用いて、特定の人物の私的な情報を勝手に集め、時にそれを暴露することでパブリックイメージを操作する。
この手法はかつての大統領も用いていたとされるし、エシュロンは存在自体がそれの証拠とさえ言えるだろう。
プライバシーか、犯罪阻止か。答えの出ない問いのように、やはり思えてならない。
12月26日(木) 論理力を振りかざしてるつもりの・・。

暗号化技術を「犯罪に使われたら云々」と批判することへの反論として出てきた、ある例え話にすごく納得した。
例えば、「強盗が円滑に住居侵入を果たすから、グローブの販売は制限せよ!」と唱える専門家を想像して欲しい。
控え目に言って、僕はそいつの頭がおかしいとしか思えない。屁理屈をこねれば、犯罪に用いられる可能性が無いものなど無いのだ。
そして仮にそんな理屈で手袋なりグローブなりが売られなくなると、怪我や酷寒で苦しむ人がどれほど増えるか。
犯罪と結びつけてあれこれ制限することは、論として容易で説得力ありげに見えるからこそ、実は脆弱なのではないかとふと思った。
12月27日(金) サイバー”犯罪”とは。
暗号を称賛する市民と、暗号の流布はコントロールしたい為政者。
この本が書かれた頃は、インターネットの普及率も「ぼちぼち」だったと思うが、その論調や構造は今も同じように感じられる。
僕は見たことが無いのだが、天才少年がRSA暗号をうっかり破ってしまい、命を狙われるという設定の映画があるそうだ。
そこの敵役は政府から派遣されたアサシンであり、その設定にも当時の市井のイメージが伺える気がする。
12月28日(土) 妥協案。

暗号の堅牢さと人権の自由。これらをどう両立させるか。妥協案は、第三者の介入だ。
完全に信頼できる、政府とも市民とも独立した機関に「鍵」の保管を認め、いかなる要請があろうと、然るべき理屈がない限りは絶対に解錠を認めない。
しかしこれはつまり、政府は「好き放題できない」だけで、市民は「秘密を握られる」ということになり、どこかアンフェアな気持ちになる。
妥協案でも納得に繋がらないとは、厄介な例だと思わされる。
12月29日(日) 海を隔てた先の話。

暗号推進、暗号制限、どちらの派閥にもロビイストはいて、国の立法や行政に深く関わり、その決定に影響を与えているという。
そしてこの本の刊行時は、どちらかといえば制限派に傾きつつあったらしい。思い返せば、日本はどうだったろうか。
2000年代初頭は2ちゃんねる全盛期のイメージがあり、そこには犯罪予告や、そこでのやり取りが怨恨となって生まれた恐ろしい事件もあった。
そのときは積極的にプロバイダーが情報を公開するといった動きが、確かにあったように思う。実際、ここでプライバシーを守りきれば、犯人は逃げ仰せた可能性もある。
どちらを固持しても最悪の未来が口を開けて待つ以上、妥協案こそなんだかんだで良いのか、と納得させられる。
では今週はこの辺で。