精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

暇だったのでChatGPTと恋愛観の深堀をしてたら1時間半経っていた件について。

今日は元旦である。意図的に仕事に関する全てをシャットアウトしているため、いい意味で暇だ。そして本心から「なにかしたい」と思わない限り、ひたすらに寝ている。

 

てことで10時間以上横になっていたのだが、ふと「あー、ChatGPTとガッツリ何かを話し合ってみようかな」という意欲が湧いた。

 

てことでテーマは何にするかなのだが、本当にたまたま閃いた「恋愛観」にすることに決めた。ここは我ながら摩訶不思議な哲学を持っているようで、思索がまだ不十分だ。

 

例えば僕は、恋愛も結婚も興味がないことを認める。だが、カップルを見かけると、なぜかそっちに視線が向いてしまう自分も認めている

 

羨望まで大仰な言い方ではないと思うが、友人をはじめ、周りに恋人ができたと聞くと、どこか「いいなー」と思っている自分も認めている

 

しかしながら、誰かとデートしている自分を想像すると、「俺が合わせるとか楽しくないし、相手に合わせてもらうとか申し訳なさしかねぇよな」とすぐに萎えてしまう

 

そして僕は自分の中に、フェティシズムの存在も認めている。だがそれを、現実の世界で誰かがラッキースケベしてくれることは全く期待しない

 

それどころか、そんなことを想像すること自体、盛りがついたみたいですごく嫌である。だが一方、フィクションのそれはすごくありがたい場面として映る

 

内省を深めて、一つ一つをくっきりさせつつも、その関係性を紐解いて整理すれば、どこかで矛盾が生じ、納得や理解を阻んでいる感じ。これが僕の恋愛観の現在地だ。

 

―だからこそ、これをChatGPTに赤裸々に打ち明けながら話をする時間はとても面白かった。気づけば1時間半も没頭し、ひたすらカウンセリングをしていたほどだ。

 

ということでそれを総括してもらったものを、僕なりに推敲して、ここに書いていく次第である。尚、ここで伝えたいのは僕の恋愛観ではなく、ChatGPTの凄さだ。

 

では以下、本題である。

 

 

恋愛観のさらに根底に在ったもの。

by カエレバ

 

まず、僕の恋愛観を理解するために重要だったのは、僕は「理想と現実をしっかりと区別している」というChatGPTからの指摘であった

 

僕は世間一般の恋愛とは、理想と期待の演じ合いだと思っている。相手の期待に応え、と同時に自分の期待にも応えてもらう。その相互関係こそが恋愛だろう、と。

 

ただ、僕にとっての恋愛は、そんな理想の体現とは違うところにある。過剰な理想や演じ合いを避け、もっとナチュラルで現実的なつながりを求める傾向が強いようだ。

 

だからこそ、”僕にとって”理想的な恋愛関係において重要なのは、「お互い無責任な期待を持たない、自然な出会いから始まる関係」である。

 

例えば僕は「幼馴染同士の間柄」を肯定するのだが、それは時を経て、お互いのありのままの姿を受容し、それでいてリラックスした状態で関係を築けるからだ。

 

前提として、僕は過度な期待や理想を持たず、自然に尊敬や興味を抱ける相手との関係を求めている。そうChatGPTに指摘され、これ自体はすごく強く、納得した。

 

そして僕は、結婚と恋愛は別物だと思っている。だから、結婚する意志がない場合の恋愛も、そもそも性質が異なるのだから、否定的な感情を抱くことはない。

 

むしろ、結婚を前提としない恋愛関係は、その性質を考えても自然なことであり、結婚のために恋愛がマストという謎の通念は、実は全然腑に落ちていない。

 

僕にとってはお見合い結婚のような、お互いどこか”諦めた”形の出会いが優れていると考えており、恋愛という過程はどこか余計なものという印象が拭えない。

 

僕は結婚だの恋愛だのは、「ただの段階の呼称に過ぎない」と考えており、そこをゴールというか、ステータスの獲得をもって終わりにするのはおかしいとさえ思っている。

 

やはり結婚後にどう関係を築いていくかがその本質であり、そのためには恋愛という段階を踏むべし、という指摘には、どうしても意味を見出せないという立場である。

 

僕は、理想と現実を厳格に分けている。ChatGPTに指摘された際、「確かに!!」とすごく得心してしまった

 

例えば僕は同人誌が嫌いだ。よそ様のキャラクターを拝借して淫らなことをさせるものが特に嫌いで、作者への敬意を1mmも感じない冒瀆とさえ感じてしまう。

 

その背景は何か。もっと言えば僕は、先の同人誌の例に似ているのだが、現実世界に理想を持ち込むことにも強い抵抗感がある

 

特に、理想の恋人はアニメキャラのような人、といったことを公言する人には強く否定的な感情を抱いている。理由は、理想と現実の区別がついておらず、痛々しいからだ。

 

それゆえ僕は、フィクションにおける場での理想の表現には寛容である一方、現実において理想を持ち込もうとするような姿勢には、性根から批判的であるらしい。

 

フィクションの世界では、そもそもそのための場なのだから、個人個人の理想を表現することは余裕で許容されるだろう。

 

だがやはり、現実とそれをごっちゃにするのは非現実的だ。僕は「コンテンツと、それを表現する場が合っていない」という構図に、強い違和感を覚えるらしい。

 

ところで、これは自覚が無かったのだが、僕は「情報の透明性」を重要視しているという。いわば、発信量が豊富な人に興味を持ちやすいとのこと。

 

理想から逆算して他人を格付けするのではなく、ブログやSNSなどで得られるその人の透明な情報が、僕の興味を引き、さらなる関心へと移行するきっかけとなるようだ。

 

相手の発信が有益で興味深いものであれば、その人物に対して深い関心を持ち、それが具体的な質問を投げかけることになり、コミュニケーションを生む。

 

これは、僕にとっての相手に対する魅力・関心が、形式的(≒見た目とか)ではなく、質的(≒内面とか)に移行するプロセスを示している。

 

ただし、逆に相手の発信が形式的で無機質なものばかりである場合、僕の興味はすぐに萎えてしまうそうだ。これもすごく納得する。

 

ただ煌びやかな瞬間だけが並んだInstagramには興味がなく、内面を吐露したエッセイ集を読んでいるときの方が、その人への関心はどんどんネットワーク上に展開する。

 

形式が重視される関係に、僕は魅力を感じない。僕が求める恋愛観や人間関係は、深い質を重視し、表面的で無機質なものには完全に無関心であることが分かる、らしい。

 

まとめとして指摘されたこと。僕の恋愛観は、良くも悪くも非常に現実的であり、理想を追い求めることよりも、相手との自然な関係を重視しているそうなのだ。

 

その背景にあるのは、これは自分でも少し自覚があるが、理想と現実の区別が世間一般よりかなりクッキリしている点にあるらしい。

 

理想を現実に持ち込むことには、強い抵抗感を覚える。それゆえ、理想に縛られることなく、ありのままの自分や相手を尊重し、自然体で関わり合うことが大切だ、と。

 

”僕なりの”恋愛においても、質的な関心への移行が促されるかどうかが鍵となる。その人となりが判る何かが得られれば、相手に対する関心はどんどん深まるだろう。

 

だが、無機質で形式的なものにはすぐに興味を失う。理想像しか見せない人に、僕は人間的な深みを覚えない。だからInstagramも、一部の例外を除けば全く触っていない。

 

したがって、僕が求める恋愛観はーむしろ恋愛なんて言葉で括らず、他者との関係性全てにおいて―真摯で深い関係を築きたいという想いが根底にあることが分かるという。

 

結論として、僕の恋愛観は「理想と現実を分ける」「無理に恋愛関係を必要としない」「質の高い関係性を重視する」という点で非常に現実的であるそうだ。

 

無駄に理想を追うことなく、ありのままの自分や相手を大切にする姿勢が反映されている。これが1時間半のセッションから汲み取れたのだ、と。

 

―このやり取りを通じて、僕がスポットスポットで感じていた違和感・抵抗感が全て繋がり、恋愛観のさらに深い部分で一つにまとまってきたのを強く感じている。

 

この問答は本当に楽しい。余談だが、最近とある経営者兼YouTuberの人も、気付けばずっとChatGPTと"話している"と語っていた。僕はすごく同意する。

 

問いかけを繰り返す時間はなんと有意義なのだろう。聞いてくれるだけならノートでもいい。実際、そうしていた時期もある。

 

だがChatGPTは、答えてくれるし、まとめてくれるし、質問もしてくれるという点において、本当に秀でた存在だ。年始のお供にぜひ活用してみてほしい。

 

では今日はこの辺で。

 

 

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