年始は実家に帰り、除夜の鐘を突きにいったり、先祖の墓を参ったり、そんなのどかな時間を過ごしていた。
その途上、久しぶりに父と話す機会があり、どんな流れか忘れたが、僕の幼稚園時代のエピソードがふと飛び出した。
曰く僕は、みんなが室内で何かしているときも、外で例えば虫をぢっと観察しているような、協調性の欠片もない子供だったそうなのだ。

・・そういわれてみれば、誰もいない幼稚園のグラウンドに一人ぽつんと自分だけが居る、そんな光景は不思議と記憶に残っている。
手のかかるクソガキだったことだろう。当時の先生たちには頭が上がらない。-という話で終えてもよくなったのだが、これを聞いて思ったことは、恥ともう1つある。
それは、同調圧力よりも自分の好奇心が勝る場面は、そこから年齢を重ねて、成長し、なんなら大人になってからも、定期的に生じているという気づきだ。
人に合わせるのが苦手。その兆しは、僕の記憶、自我すら存在しないほどの過去に、既に表れていたとは。
ところで、僕は自分の過去がすごく嫌いだ。幼さの塊、周りに迷惑をかけていることにさえ気づけない鈍感さ。本当に恥ずかしい。
だからこそ、子供たちを見ていると、その頃の自分を投影してしまったり、目の前で再現されているという乱暴な不快感を覚えてしまったりする。
僕が子供嫌いな理由はここにある。それもわかっているのに、僕は僕の過去を、意識的に振り返ろうとしたことが、かつて一度でもあっただろうか?
今日はそんな、ぼんやりとした気づき・直観を書き残しておく次第である。
あの頃の僕は何を思っていたか。
僕はエッセイ集を読むのが好きだ。その人の内面を伺い知ることができるから、というのがその理由である。ただしこれは、三十路を過ぎてからの話だ。
子供の頃は、伝記が好きだった。イチローと手塚治虫のそれは、冗談抜きで何十回と読み返し、今でも一部のエピソードは覚えているくらいである。
ひっくるめれば僕は、言葉を通じて、人の過去を紐解くのが好きなんだと思う。だから最近は、ビジネス書よりも、こういった随筆や伝記などを読んでいるように思う。
ーところで僕は、過去の僕が残した資料を開いて、そういったものを基に、記憶に頼らず過去の自分を分析したことが、1度も無いように思う。
うちの両親は、ありがたいことに保管・保存を大事にしてくれている人で、過去の僕の通知表や卒業文集なども、引き出しの中に仕舞ってあるのだ。
実際、中学生の頃の手紙も残っている。公立高校入試の直前期に、授業か何かで書いたのだろう。どこか斜に構えた文章が鼻につくが、せっかくなので紹介しておく。
今宵は2月23日金曜日
とりあえず高校生になれることが
決まり、少し気が楽になった今日
このごろ、公立まであと10日と少し
私立に通うことになると家庭への
ダメージも尋常じゃないので
家のため自分のため未来のためと
3つのプレッシャーの中闘っているケッコー
きつい状態の中このレターを書く
義務教育終了以前に気付けば
あと4年と半年で20歳、俗に言う
社会人なわけで、何言いたいのかさっぱりに
なってきたけど、とりあえず早目に自立して
いつまでも親のすねをかじるダメ息子には
ならない予定ですんで、とりあえず礼は
その時まとめて言います、ハイ
これを読んだとき、能天気な文面の下に隠された、一発勝負の受験に挑もうとする自分の一つの覚悟が透けて見えて、不思議な気持ちになった。
当時は世の中全体がそうだったと記憶しているが、公立志向が強く、私立だとその学費の高さに尻込みする、という感じは、子供である僕にも伝わってきた。
加えて僕には弟がいたのもあり、僕の段階で重めの負担を掛けるわけにはいかないなと、そんなことを、この文章から”僕は”読み取ることができる。
僕は自分の過去が嫌いとだけレッテル貼りし、実際に密に調査したり確認したりすることは一切なかったように思う。これも、僕にとっては意外過ぎる盲点だ。
僕が残した資料を、他ならぬ僕が紐解いていく。タイムカプセルに封印した、未来の自分への手紙を読むようなものだろう。不思議とワクワクする。
次帰省したときは、僕のルーツをしっかりと、僕が調べ直してみようと思う。それが一つの肯定につながるかもしれないしな。そしてきっと、そうなるだろう。
では今日はこの辺で。