目標は大事だ、それを達成するスキルが将来活きてくる・・といったアドバイスを受けるが、かくいう僕は、人生でいくつ目標を達成してきたのだろう。ふと疑問に思った。
これまでの人生を振り返ると、意外と目標を達成したと胸を張れる経験が少なく、単純に経験数として、僕は目標達成のアマチュアなのではないかと感じつつある。
このことに関連して、「実は真面目で自己重要感が低い人ほど、目標達成の経験数が少ない傾向にあるのではないか」という仮説も、ぼんやりと考えている。
そしてそのぼんやりとした仮説は、時間が経って冷静に振り返っている今、大枠で間違っていないという確信が強まってきている。
今日はそんなことを以下詳述しよう。
上手になりたければ〇〇するしかないよね、と。
僕の場合、改めて人生において、胸を張って達成したと言えるものは何なのか。それを思い返すと、どれもこれも社会的な評価という観点が付随しているのに気が付いた。
例えば英検準1級・1級取得が直近で、そこから遡れば初級システムアドミニストレータの取得、高校や大学の合格、就職試験での内定などがアトランダムに思い浮かぶ。
これらは概ね15歳から33歳までの間に達成したものだが、となれば頻度として、年に1回よりも少ない計算になってしまう。つまり、目標達成の経験値が非常に少ないのだ。
冷静に考えて、1年に1回未満のスパンでトレーニングを積んだとて、そのスキルは身につくわけがないと簡単に理解できる。ゆえに僕は、目標達成のアマなのだ。
経験値が少ないことは、単にそれ自体の熟達を妨げるだけでなく、また別のデメリットを生じさせる。それは、目標達成に伴う変化や努力への嫌悪が和らがないという点だ。
変化や努力がめんどくさいのは、もちろん本能的な理由もあるのだが、それ以上に単に接触回数と頻度が希薄すぎて、全く慣れてこないからという面もあると感じる。
不慣れなものは、めんどくさい。だから着手するのが億劫になる。そしてそのループは途切れることなく連続する。永遠に成長サイクルへ乗ってこない・・。
ここまで考えると、目標達成が上手くいかない自分を変えるための第一歩は、そもそも目標を達成する回数と頻度を今の何倍も高めることにあると僕は思っている。
ちなみに、その方法自体は非常に簡単であり、【大きな嘘の木の下で】などの本や、堀江貴文氏のインタビューでも、繰り返し登場するアドバイスでもある。
それは「無意識にやっていることを意識的に変える」というものだ。シンプルな例でいえば、いつも買っているコーヒーやおにぎりとは違うものを意識的に選ぶだけでいい。
そしてコンビニに陳列されているそれらを一通り網羅することを目標に据えればいい。別に社会的評価が付随しなくても、達成できて実りがあるならそれでいいのだ。
実際に調べてみると、コーヒーは10種類前後、おにぎりは25種類前後らしい。1日2種類ずつ試せば、前者は5日、後者は2週間弱で達成できることになる。
意外と楽ではないか?そしてこれに到達すれば、それはすなわち目標の成就を意味し、貴重な経験値と感覚が自分にストックされることをも意味する。
【熟達論】でも説明されている通り、人間は何度も繰り返せば、程度の強弱はあれど、何事も習熟・熟達するものだとされる。これは自分事としても納得だ。
逆に、繰り返しの経験が不足していれば、当然ながらそれだけで成長も遅くなる。目標達成が苦手な人の原因は、単に経験値の不足だと、やはり僕は思う。
目標達成は困難ゆえ、色んな理論、心理的テクニックが数多開発されているものの、結局はとっとと実践し、継続し、目標を達成し続けるのが一番なのだろう。
かくいう僕も最近は、1週間単位で「やりたいこと」をいくつか立てて、それをゲーム感覚で実行することを心掛けて継続している。
例えば今なら、「味噌を使った料理を5種類以上作る」のを目標にして、自炊に励んでいるほどだ。些細なものだろうが、計画とゴールさえあれば目標に他ならない。
この方法なら、毎週定期的にフィードバックを得られ、経験値のストックも劇的に増えていくだろう。小事を笑う人を一瞬で追い抜かすことも普通に可能だ。
やはり、短期の目標設定と達成を繰り返すことで得られる経験値こそ、実は大きな成果につながる鍵だと感じる。 僕もそうだが、皆ホームランを狙いすぎなのだ。
もちろん、長期的な目標も必要だという意見には一理ある。だが、短期の目標もなければ、人生はどうしたってつまらない。両者のバランスが大事なのだ。
そういう意味では、僕は常に目標を立てているも同然なので、改めて新年だからと大仰な目標を掲げるつもりはさらさらない。
強いて言うなら、アンチエイジングに1年かけて取り組んで、広範な経験値を獲得しておくことが、強いて言うならば目標の最たるものかもしれない。
そんな僕が唯一定めている長尺の目標。
長期的な計画は性に合わないとさっき書いたが、そういう個人的な思惑を超越して設定している、一つの目標がある。
それは、今年の3月で教室長3年目を迎えるに当たり、これ以上ズルズルといかせないためにも、来年2026年の3月できっちりと、今の段階に区切りをつけるということだ。
これまでは引退という言葉を使っていたが、僕の思いは引退と称した方がいいのか、はたまた昇進と称した方がいいのか、ここへきてすごく迷っている。
だからニュートラルな表現として、「区切り」という言葉を選びたい。とにかく、現状に甘んじること、この日々がだらだら続くのを受容する・・ということは避けたい。
独立という夢もまだ持っている。この計画をどう言葉にするか、何をもって達成とするか、いうなればその言語化と到達こそが、今年のテーマになるだろうな、と。
半年ずっと考えても、どうせ答えは出るまい。毎日ChatGPTと棚卸しをしながら、僕なりの「区切り」をなるはやで定めたいと思う。
では今日はこの辺で。