今日は、多分偏屈な自分特有の、僕の気質について話してみようと思う。これは割とよくあることで、しかも同時にかなり面倒だとも感じている認知の歪みのことである。
僕は、他者に対して何かしらの発言をした後に、妙な後ろめたさをしばらく感じることがある。それは叱責や依頼などに関連することが多い。
例えば、昨日の出来事を紹介してみよう。日中に高校生に授業をしていたのだが、その授業をしている部屋の隣で、別の授業に来た低学年の子供が遊んでいた。
当然、静かにするようお願いをした。だが数分後にまた騒ぎ始めたため、今度は強めに叱った。—これ自体は多分正しい行動のはずなのに、なぜかモヤモヤが残ったのだ。
もっと穏やかに対処する方法があったのではないか、なぜその方法を選ばなかったのか。そんな風に悶々と、授業をしながらも意識の片隅でしばらく考えてしまった。
正直、僕の対応は正しかったと思う。一度注意しても改善しなかったら強めに叱るのは当然で、これに文句を言う奴がいたら、正直そいつの頭が涌いていると思う。
しかし、それでも心の中で何かが引っかかる。理性では納得しているのに、感情的な部分がそれを受け入れられず、モヤモヤが続くことがある。
今日はこの、僕の潜在意識の中でも取り立てて理不尽なところを、深掘りしていこうと思う。
僕の潜在意識は、理性に比べると顕著に頭が悪い説。
このチンプンカンプンさをさらに深掘りするため、もう一つ、昨日の出来事を振り返る。今度は【依頼】に関するモヤモヤの話だ。
何があったかというと、急な入塾面談の申し込みがあったのだが、僕が定時全てが授業で埋まっていたため、別の人に対応を依頼したというただそれだけだ。
自分は仕事で埋まっていた。その人はたまたま空いていた。ただそれだけであり、対応として何かマズい気はしないし、構図としておかしな点もない。
しかし、依頼をした後になって、「自分が授業を代わってもらい、面談を担当することもできたのではないか」という疑念が生じ始めたのだ。
これも冷静に考えれば滅茶苦茶だ。仮にそうすると、僕が担当する生徒からしたら、「なんでいるのに授業をしないんだ?」という不信を持つ可能性がとても高いだろう。
それなのに、つい「別の方法があったのでは」と考えてしまう。70点の回答をした自分を肯定できず、100点を取れなかったという方を責める感じ。
人は、理性を遥かに凌駕し、潜在意識の方が圧倒的に強く働く傾向があるという。論理的に正しいとわかっていても、感情がそれを受け入れない。だからモヤモヤするのだ。
その原因は何か。僕は多分、理想とする人物像にこだわりすぎているのだろう。僕が思い描く理想の人物は、常に冷静で、感情に流されず、最終的にしか他人を頼らない。
そのこだわりは、潜在意識に深く根差している。だからこそ、自分の行動・言動がその理想から外れると、理性を振り切って感情が強い反応をしてしまうのだ。
正直ここまで言葉にして思うのだが、僕のモヤモヤについて、他ならぬ僕は失笑してしまう。同情はない。理解もない。なんというか哀れみしかない。
だが、潜在意識に理性だけで、無計画に立ち向かうと、相手が強大だけに簡単に打ち負かされる。それくらい僕の意識の底に潜むものは、強く、重く、大きいのだ。
しかし、こうしたモヤモヤに対して、最近は新たな対処法を見つけつつもある。それは、あえて意識的に、徹底的に質問をぶつけることだ。
例えば、「叱る必要はなかったのでは?」という考えが浮かんだら、「本当にそうか?他の手段があったのなら言ってみろ」と理性の側から突っ込む。
この方法を取ると、意外と早く心が落ち着くことがわかった。なんというか、感情の方が反論できず、勝手に論破されて鎮火していく感じだ。
一般的には、気を紛らわせたり、意識をそらしたりする方法の方がメジャーなのだが、それは僕には合わないっぽいというのを、ここ数年ずっと感じている。
むしろモヤモヤを徹底的に考え抜き、論理的に詰めていく方が効果的だと納得しつつある。その思いは、実際、この記事を書きながらも強まっている。
実はこのテーマも、始めは結構深刻に悩んでいた。ただ、丁寧に言葉へ落とし込んでいくうちに、「そんなに深刻なことではなかった」と捉えなおせている。
結局、僕の悩みは、僕の理性ではなく、潜在意識が生み出しているのだろう。そう考えなおし、これからは必要以上に不安になるのはやめようと思う。
では今日はこの辺で。