精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

コロナが教えてくれた【オフの尊さ】。

人生で初めてコロナだと診断されて、早いもので2日が過ぎた。発症日から考えると、僕は明後日から仕事に戻れるし、体調を考えても、多分間に合うと思っている。

 

38.4℃~39.4℃の辺りを彷徨うような高熱は下手すれば10年ぶりとかの苦しみで、本当にここ数日で自分の命日が来るのではないかと、真剣に怖かったのを覚えている。

 

さて。復帰2日前にリハビリ兼ねてしたためているこの記事だが、今こうしている間も体調が戻っていない点はかなり多い。

 

まず、ベッドとトイレの往復だけで息が切れる。シャワーを浴びただけで座り込んでしまうほど疲れる。そして何より、味覚障害が起きており、薬の苦味さえ感じないのだ。

 

凄まじく低下した体力は、思考する気力も奪う。だから小説を読んでも5分で集中が切れてしまうほどだ。だが御蔭で、仕事のことは完全に人へ一存できてもいるのだが。

 

―病気によって強制的に手を止められ、人とも会わず、家からも出ず、完全にクラッチを切っている状況。その分断されっぷりは、正月の帰省をも遥かに凌ぐ孤独だ。

 

だがこの孤独の期間、僕はこれまで忘れていたあまりにも多くのことを学べたと思っているし、多くの人が提唱するヒントの意味がより一層腑に落ちたと思っている。

 

今日は考え事のリハビリと称して、その一連のあれこれを書いてみよう。

 

 

【濁り水】の比喩。

 

【熟達論】のどの章かは手元に無いため忘れたのだが、やたらと印象に残っている比喩表現がある。それはビーカーに入れた泥水だ。

 

ビーカーに泥を入れて振ると、水は濁る。だが時間を置くと泥と水は分離し、透明な部分と沈殿した部分が、クッキリと分かれる。

 

それによって、ひたすら動いていたときには見えなかった濁り、もとい力みや思い込み、我の部分が勝手に取れることで、より本質が見えやすくなる、と。

 

ケガなどで長期離脱していた選手が戻ってくると、かえって怪我をする前よりいいパフォーマンスをするようになることが多いのも、ここに在るという。示唆深い話だ。

 

―同じことを、今僕は思っている。正直僕は、人に依頼することが怖かった、みたいなことをずっと書いてきた。依頼しても、巡り巡って僕が数段面倒になるだけでは、と。

 

しかし今はそうも言っていられない。自分が職場に行けない以上、人に任せるしかないのだ。そこに勇気は要らない。ただ必要な手順をテキストに起こし、送るだけだ。

 

結果、”今のところは”なのだが、何のトラブルもなく、クレームも来ず、僕がしてほしいことは全て叶えてもらったうえで、僕の仕事まで終わらせてもらっている。

 

本当に感謝しっぱなしなのだが、だからといって僕は卑屈になっているわけでもない。自分のプライドが傷ついているわけでもない。いわば、これが普通かと思っている。

 

これは何も、感謝のことを当然と思う忘恩野郎のことではない。病欠の人が出たらフォローはするし、自分の仕事の大体は他の人もできるよねという、ただそれだけ。

 

そんな”当たり前”のことを、自分がどうにもならない状況になることで、まざまざと思い知ったというわけだ。自分が実演できなかった自分を強制されて、見えた世界。

 

俺は自分一人で頑張ろうとし過ぎていた結果、本当に色々誤っていたんだなと分かったのだ。僕の濁り水が透明になるまで、2日あれば十分だったようである。

 

と同時に、以前インフルで休んだときに抱いた、自分がいなかったらトラブルだらけになる・・という恐怖はただの杞憂に過ぎないことが、目の前で実証され続けてもいる

 

これは僕がなんだかんだで、過度な属人化を防ぐシステム作りには上手くいっていたのかもしれないという、そんな希望的な途中経過を学ぶ好機にもなった

 

こう考えると、強制離脱をして初めて見える世界もあるんだなと、すごく興味深く、他人事として、現状を俯瞰できている。

 

本当に【素】の自分を晒すのは容易ではない!

 

これは皆様にもあるあるだと信じたいのだが、僕は小学校・中学校を病欠した際、体調が昼過ぎに良くなると、大変決まりが悪かった

 

理由は、体調が悪くて学校を休んでいるのに、その免罪符が失われてしまうと、何かすごく悪いことをしている気がして、申し訳なくなってしまうからだ。

 

それは今のコロナ発症期間も”最初は”同じだった。ぶっちゃけ5日間も自宅療養なんか要らない、2~3日でいいのにな、穴開けて申し訳ないと、2時間だけ思った。

 

だが診断を貰った日に早速39.4℃とかを叩きだし、痰を絡ませて一瞬呼吸が止まりかけたりしたのを経て、「2,3日で治るかい!!」と、そっちに強く納得した

 

これを言うと怒る人が居たらそっちの方が器がおちょこだと思うのだが、僕は僕の義務として、この療養中は思い切り病人をエンジョイしてやろうと思っている

 

―とはいえ体力は平時の下手したら15%くらいしか今は無いので、それこそ散歩さえ困難だ。だから必然的に引きこもって小説を読むか、YouTubeを観てるかしかない。

 

御蔭さまでよつばchという世界史解説のゆっくり解説動画を15本くらい観れたし、自分が面白いと思っていた某ゲームが実はクソという烙印を押されていたのも知った。

www.youtube.com

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ショート動画も300本くらい観ていたが、それくらいコンテンツを消費していないと、仕事のことを考える気力もない以上、暇で暇で仕方ないのだ。

 

・・というところまで考えてハッとした。ここまで気を散らすための努力を重ねた結果、僕は仕事のことを考えず、静養に”専念”できている。

 

逆に言えば、これくらい必死でシャワーのように刺激を浴びないと、僕は生活の中で一番大きなウェイトを占める心配事・懸念事項からクラッチを切れないのではないか

 

それこそ僕は、キャンプに行っても魚釣りに行っても、なぜか無意識に”忙しくあろう”としてしまう。最速で設営しようとしたり、要らないものはすぐ仕舞ったり。

 

これは無意識に、自分が意識を切りたい対象に関する思考を生まないための、いわば防衛反応だと理解したらどうだろうか。すごく繋がってくるものを僕は感じる。

 

僕は今、仕事からも将来からも過去からもクラッチを切った、等身大の、いわば外皮を剥き切った玉ねぎの中みたいな自分が、部屋にポツンといるのを感じている。

 

これが素の自分であるのなら、普段の僕のオフは端的に言えば”甘い”のだとよくわかった。僕は静的なオフがやはり合わないのだ。もっと、動的でなければ。

 

詩人みたいなことを言うが、僕は眠り以外、真の意味で休息は要らないのかもしれない。これはADHDとかHSS型HSPとか、カテゴライズが便利な言葉で説明に代える。

 

僕は今、心の底から過去最高の休息(もとい病人ライフ)を送れていると思っている。あえて自分を見つめ直す、内的観察の時間を取っていないことがその理由の1つだろう。

 

素の自分は積極的に発掘しに行くもの。これは面白いヒントじゃないかと思う。

 

終わりに。

 

繰り返しになるが、僕は明後日から一応復帰だ。お医者のOKも要らないので、自己判断でGOしていいゆえに、これ以上延長させる気は毛頭ない。

 

だがこの休養期間、濁り倒していた自分というビーカーを静かに置いて眺めた結果見えてきたものは、自分が妄信していたことが、悉くズレているという仮説であった。

 

人を頼れない?いいえ、それはあなたがそれをしないだけです。あなたが抱えている仕事が周りに見えるなんてただの妄想です。

 

あなたがいなくなったら仕事が止まる?いいえ、組織は思っている以上に強く、あなたはあなたが思っているほどカリスマ性ある人じゃないんです。

 

僕の我と距離を取って冷静に見ていると、何て愚かなことを自分は考えているのかという、そんなシニカルな目線さえ得られつつある

 

裏垢女子に痛々しい説教・自分語り・下心の吐露を行うおじさんの文を読んでいるのと同じ憐憫を、僕は自分の”価値観そのもの”に向けられている。

 

―と同時に気付いたことがもう一つ。俯瞰・客観視という”状態”や”構図”を冷静に考えると、それは"スルースキル"や”ユーモア”と地続きではないかと思えてきたのだ。

 

自分が元気を取り戻したら、ぜひともじっくり考えてみたい問いまで、この生活はもたらしてくれるとは。しばらく御免だが、病欠もまた尊い時間なんだと思わされた。

 

では今日はこの辺で。

 

 

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