精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

長期的視点を持とうと頑張ってきたけど、ぶっちゃけ諦めかけている。

今日は「長期的な視点をどこまで真剣に考えるべきか?」という話について、一旦考えをまとめてみたい。ただ先に言うと、僕の中で結論はまだ出ていない。

 

僕は昔から長期的な視点で考えるのが苦手だ。むしろ感覚としては、音楽や芸術の良し悪しを語れるのと同じくらい意味不明なスキルに思える。

 

なぜそう思うのか。一般的に「長期的な視点」とは、1年や2年先の未来を想定し、そこに向けて逆算して今の行動を決めることだと捉えている。未来予知と言ってもいい。


しかし、そんなことは実際にはできないのではないかと、やはり思う。それゆえもう、

長期的視点を持とうと頑張ってきたけど、ぶっちゃけ諦めかけている。

 

以下、そんな愚痴をつらつらと書いていく。

 

 

未来は現在の延長である、という考え方に物申したい。

 

たとえば、数年前に、2025年はAIがここまで一般化することを予想できた人はほとんどいなかったはずだ。少なくとも僕は、AIとCPUの区別はほぼついていなかった。

 

仮にその予測ができたという人がいたとしても、それがたまたま当たっただけのただの放言じゃないことの証明は困難だろう。

 

また同様に、10~15年前の人々は、YouTubeなどの配信で生計を立てられる時代が来るとはほとんど想像していなかっただろう

 

それくらい、過去から見た未来は、その延長線上に素直に乗っているとは思えないほど、劇的に進化する印象を持つ。


そう考えると、5年後や10年後の未来を考えることにはさほど意味がないと感じる。なぜなら、今の僕には想像もつかないような世界になっているだろうからだ。

 

例えば将棋の対局中、現在の局面から百手先を読むことは不可能だし、それ自体に意義はさほど感じない。それと同じなのではないかと、僕は捉えている。

 

だからこそ、長期的な視点を、あたかも"十分可能である"という前提で自分や他人に押し付けることは、ちょっとどうなんだろうと思っている。これが本心なのだ。

 

ただし、話のスパンが短くなると、話は変わる。例えば2~3ヶ月先のことであるなら、それはなるべくシミュレーションして、把握しておく必要があると思う。


この2~3ヶ月という期間は、せいぜい中期、あるいは短期の範囲だろう。そして僕は、2~3ヶ月先のことさえ考えておけば、それで十分ではないかと思っている。

 

これくらいであれば、途中に劇的な変化が起きて未来が大きく狂うことは考え辛い。かつ、2~3ヶ月くらいの時間は、本当に一瞬で訪れるくらいのスパンである。

 

とはいえ大仰なことは必要ない。たまに「2ヶ月後には何があるか?」と考えるだけでも十分だと思っている。そしてそれをルーティン化できる人は最強だとも感じる。

 

ただ、僕は例えば「週に1回考える」というルーティンが苦手だ。やるなら毎日やりたいタイプなので、「今日はする日? しない日?」と考えるのが面倒に感じるためだ。

 

もしそれができる人なら、僕がここまで書いた話の例外として、長期的な視点を持った計画を立てられるのかもしれない。

 

今の僕には、そういった考え方はまだ遠い世界の話だと感じる。そしてそれは遠い世界のまま、一生自分の方に近寄ってこないという諦めも感じているところである。


やはり僕にとって、長期的視点なんてものは、まるで芸術や美術について「これは良い、これは悪い」と論じ、かつ共感を得られるほど高い練度の審美眼のようなものだ。

 

すなわち、才能を持たずに生まれた時点で、僕は最初から代替案を考えるべき方なんだという話ではないか。長期的な視点とは、非常に不思議なスキルだと改めて感じる。

 

では今日はこの辺で。

 

 

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