僕は、つくづく「期待なんてしない方がいい」と思っている。これは諦観に基づくというよりも、人間関係などをスリムにするための、いわば割り切りの話だ。
もともと『大きな嘘の木の下で』という本を読んだとき、その中の説明に深く納得し、共感したのが、「期待なんてクソ」と思うようになったきっかけだ。
その気づきを通じて、僕は「期待するのもされるのも嫌いなんだな」と数年前に悟ったのだが、最近は、それが些細な期待に対しても同じなのだということに気づいている。
それくらい僕は「期待」が性に合わないので、それについてただの愚痴を以下つらつらと書き殴っていく。
「期待」というスケベ心。
やはり、他人が自分の思い通りになることを期待するのは無意味だと思っている。それが叶うことなんてほとんどないし、なんならストレスが溜まるだけだと感じるからだ。
僕にとって、期待というのは英語の仮定法過去に近い。「ありえない」と分かっていながら持つ幻想のようなものだ。
だから、「なぜあの人は僕の言った通りに動いてくれないんだ?」という愚痴は、「なぜ1日は25時間ないんだ?」という愚痴と同じくらい無意味だと考えている。
このことには以前から気づいていたが、そうであっても未だに自分の中には、「理想通りになってほしい」というバイアスがある。それを実感する場面は、時々ある。
「意識もしてないところで、僕は無責任な理想を相手に押しつけていないか?」・・・最近はシビアに、そんな疑問を自分に突き付けるようになった。
実際、相手の様子をしっかり観察すると、やはり期待通りにはならないことが多い。と同時に、どこかもどかしさを覚える自分も感じている。
それに気づく度、「お前は今、お前が嫌いなはずの期待ってやつをしちゃってるぜ」と自分に冷や水を浴びせる。そう捉え直すだけで、ストレスがかなり減ったように思う。
・・さらに興味深いのは、期待が結局ストレスに繋がるという意味では、「自分への期待」も同じだということだ。
例えば、「自分はここまでやれるはずだ」という理想のモデルを自分に押しつけたところで、大抵その通りにはならない。机上の空論、絵に描いた餅だ。
ただ、そうだと分かっていても、理想と現実の落差は自分の心に良からぬ影響を及ぼす。結果イライラして「意識高い系じゃん」と自分を責めることになる。
こうした勘違いを防ぐためにも、”自分自身に対しても、”過度で無責任で無邪気な期待をしないことが大事だと、最近つくづく実感している。
とはいえ一時期は確かに、理想の自分という期待は、「そうじゃない現状から自分を奮い立たせる材料」として機能していた部分もある。
しかし冷静に振り返ると、「気持ちだけはいっちょ前に必死になっているけれど、それは空回りして、実際は特に行動していない」という状態に陥ることが多かった。
だから最近は、「これをやったら結果が出るかも!」という期待さえ捨てて、「必要だと思ったらやる、いらないと思ったらやらない」とだけ、考えるようにしている。
そうすることで、結果として余計なストレスが減り、物事に冷静に向き合えるようになったように実感する。僕はやはり、期待そのものと全く相容れないようである。
結局のところ、「自分にも他人にも、こうあるべきだ」という理想を持つこと自体がストレスの原因になっている。アレルギーみたいなものなのではないか。
どうせその通りにはならないのだから、最初から期待しない方がいい。そう構えておく方が、僕にとって人生は生き易い。
改めて、自分にそう言い聞かせておく。ということで今日はこの辺で。