昨日、長く勤めてくれたバイトの送別会があった。我ながら致死量と思えるほどの酒を腹に流し込み、酩酊し、記憶が曖昧な状態で帰宅した。
どうやって帰宅したかも、あまり覚えていない。だがそんなのは些末な話だ。なぜなら起床してからというもの、なぜか猛烈に恥ずかしいという気持ちに支配されたからだ。

思い返せば、最近こうした大勢での飲み会に参加すると、そのメンツに一切関係なく、翌日には決まって恥ずかしい気持ちになる。
とんでもないことをしでかした気がして、思い出すたびに身悶えする。何がそんなに恥ずかしいのかと考えると、やはり自分の言動だ。酔うと理性のブレーキが外れるのだ。
もちろん、ウザ絡み等の迷惑行為はしていないはずだし、セクハラなんて論外だ。しかし、それでも振る舞いを振り返ると、「なんて痛々しいんだろう」と思ってしまう。
次の日にこんな猛烈に恥の後悔に苛まれるメカニズムは何なのか。それを知りたくて仕方ない。今日はそんな、アホすぎる自己探求の旅である。
封印していた自我=つまり俺。

くそ面白くない結論からまず言う。それは、そもそも起床後のネガティブ感情優勢の状態もまた、二日酔いの典型症状の一つらしいのだ。
だがそんなことで話を結んでも、何一つ面白くない。これはただの参考にとどめて、もっと僕独自の内面を探っていきたいと思う。
さて。恥ずかしくてしゃーないが、泥酔時の自分を客観的に振り返ると、やはり普段の自分とはかけ離れた、異質の存在に思えてくる。もう一人の自分とでも言うべきか。
では、そのギャップが耐え難く、自己嫌悪に繋がっているのではないか。例えば根暗なやつがノリノリでアニソンを歌っていると、聞いてる側が羞恥心を抱くあの感じ。
あれを、僕は素面の自分と酩酊の自分において引き起こし、勝手に自己完結させているだけではないか、と。まずはこんな仮説から考えてみよう。
ただ、そもそも普段あまり喋らない人間が、酒の席では饒舌になることはよくある話だ。それを周囲が揶揄した際、器が小さいのはむしろそいつらである。
むしろ僕の感じる問題は、実際は他人の目ではなく、僕自身が僕の変化(もはや豹変と言ってもいい)を受け入れられないことにあるように感じる。
ところで、僕は具体的に酔っぱらうとどうなってしまうのか。単に機嫌がよくなってはしゃぐこと以外に、なにか特有の言動は垣間見えないものなのか。
頭に浮かぶ自分の痴態を振り返る。例えば、酔うと頭を使いたくなる。あるいは、エンタメ作品の言葉を引用したくなったりする。実際にゲームのセリフを使うこともある。
酩酊時の僕は、それを嬉々としてやっている。つまり心底、やりたくてやっているのだ。しかし素面の状態では、そんな自分が恥ずかしくてしょうがない。
だが、冷静に見つめ直すとどうか。素面の自分にも、酩酊時にバーストしてくる僕の言動・思考・欲望は、本当に一切漏れ出ていないと言い切れるものだろうか?
これに関してはとんでもなく大きなダウトがつく。正直僕は、しょうもないことに全力で頭を使いたいし、隙あらば作品のセリフや言い回しを会話にぶち込みたい。
なんなら、これを言葉にするのも恥ずかしいが、僕はYouTubeやお笑い番組で面白いと思った”ツッコミ”や"返し"、"大喜利"を、実際に日常で言いたくて仕方ないのだ。
すなわち、酒で別人格が現れた、というわけじゃなく、僕の欲望が理性による制御を完全に逃れて、思いっきり無邪気に発露しているだけなのではないか?
酒の力を借りた僕は、別人格を憑依させたわけではなく、理性が封印していた、本当はやってみたくて仕方がないことを、節操なく全部やっているだけなのではないか?
いわば、子供が憧れのヒーローの技や、好きなお笑い芸人のギャグを実際に真似して悦に入り、後になって「あれは恥ずかしかったな」と思う感覚に近いのかもしれない。
結局のところ、酔っているときの自分は、普段理性で抑えているサイドの「本当の自分」なのだろう。その自己認識のズレが、翌日の自己嫌悪に繋がるのではないか。
ただ、それが恥に繋がる理由はなかなかに謎だ。なぜなら、発露させた言動は、つまり素面の時にしたい!と思ったはずのことだからだ。
逆に言えば、素面でも興味が無いことは、酔っていても全くしない。例えば僕が酩酊時も異性の隣に座らないのは、そもそも性嫌悪でどうにも落ち着かないからである。
ここで気づくのが、そういった酔ってはっちゃけた人に対する、世間の目の厳しさだ。それは主に、Xなりネットニュースなりで散見する。
例えば、「【陰キャの暴走】酔ってる人のイタイ言動まとめ!」みたいな感じで。僕はそういうのを目にするたび、”あれは痛々しい言動なんだ"と戦慄する感じがしていた。
―だが、ちょっと待てよ、と。それはそれで、果たして民意なのだろうか?ここから先は偏見なのだが、ちょっと思うことを書き殴りたい。
Xといった場で、身の回りの知人を辱めたり蔑んだりする人は残念ながら一定数いるが、それは全ユーザーのどれくらいなのか、冷静に考えてみる。
これはなんとも言えないデータが存在しており、なんと積極的に”炎上させるヤツ”は、40万人に1人というほどレアなのだ。
そういったノイジーマイノリティの声を民意と解釈し、それが社会的なモノサシと信じて自分に当てはめる。それはそれで、僕は別ベクトルで痛々しい!
そもそも論、僕は酒席における人の醜態をほとんど全く記憶していない。今必死で思い返してみたが・・・4~5件かなぁ。飲酒可能になってから13年経つのに、だ。
なるほど。見えてきた。僕は前提に据えている社会的総意を間違えている。Xに集まるタイプの人から見れば恥なことかもしれないが、一般的にはやはりどうでもいいのだ。
そしてここからは僕が昔出した結論に紐づくのだが、逆にそういった恥を恐れるということは、つまり僕がXのそういう人たちに"合わせる"ことに他ならない。
それは下手すれば、常識人・思いやりがある・有能な・人たちが集まるコミュニティから”忌避される”リスクを内包する。嫌な奴は集団に置きたくないからだ。
僕はそのグループにいたいのか。そのためにはどっちに嫌われていれば正しいのか。酒癖からここまで行けるとは不思議なものだが、これだから内省は面白い。
では今日はこの辺で。