僕は人から草食系男子のテンプレみたいな評価をよく言われる。異性に興味が無さすぎとか、押しが弱いとか、しゃべらなさすぎとか、そんな感じだ。
それらに対し、「なにくそ!」と思うことは10年以上前に止めている。そしてそんな僕がいずれ理解されるという期待に至っては、そもそもしてないと去年気づいた。
そういう僕なので、リーダーとしては二流くらいの立ち位置にいる。カリスマ性が皆無だからだ。だがそれに対してどう思うかというと、特に何も感じていない。
そもそもだが、僕はリーダーの評価に”パフォーマンス”が入ってくる構造が実は好きじゃない。今日はそんな言い訳っぽい話を書いてみる。
剛腕のダークサイド。
昨日も実は、僕自身の押しの弱さを指摘され、苦言寄りのアドバイスを言われた。詳しくは書かないが、ダメと言われた際に引き下がるのが早いという主旨だった。
これを聞いたとき、喉に魚の骨が刺さったような違和感を覚えた。もちろん理不尽なことを指摘するのはいいだろうが、ダメと言われたことに反論するのは正しいのか、と。
例えば、ポスティング禁止のマンションに夜間忍び込んで投函すると、これは犯罪かもしれない。また、街中の電柱に許可なく貼り紙をしたら、これも社会的な反則となる。
それらは押しの強い弱い関係なく、一つのルールとして、それは承知のうえ、その制限の中で戦うべきということなのではないかと、僕はそう首を傾げてしまったのだ。
先の例でいえば、電柱に貼り紙をしたのを咎められた際、「皆やってるじゃないすか!」と噛みついて抵抗すると、最悪通報か、よくてSNSの晒し者だろう。
地の性格だろうが、そういうリスクを僕は真っ先に考える。押し通した際のメリットがそれを超えていないと判断すると、僕はさっさと引いてしまう。
余談だが、僕はヘンと思ったらちゃんと言い返すこともある。コンビニの謎会計項目、違った商品の到着、意味不明な論理による休日出社打診、等々。
ただ、それはいちいち人に言わない。「俺、口論できるけんね」アピは死ぬほど痛々しいと思っているからだ。自称喧嘩自慢のような羞恥を僕は覚える。
また、僕が強い違和感を覚えるのは、例えば「俺は塾を止めようと思う、という話が出た際、それを説得して止めるのが得意なのだ」という自慢?だ。
それ自体はスキルとして強いと僕も思う。だがそもそも論、退塾の話って、出させないことの方が圧倒的に大事なのではないか、と。
止めたいと言った子を保護者同伴で呼んで、面談し、涙あり笑いありの舞台を作って説得する。それ自体はなるほど、目立つパフォーマンスだ。
だが、それに食われるコストは決して小さくない。そもそもそんな場は、”無い方がいいものなのだ”。でもそれは不思議と、あればあるほど、評価になっていく。
自分で言うのもなんだが、僕はフォローに対してとても敏感だ。成績を把握し、数値が怪しければテキストなり電話なりで様子をうかがう。
そもそもそういう火事を起こさないことを徹底する感じだ。消防士も勿論偉大だが、防火設備も同じくらいの功績を持っていていいのではないだろうか?
それが至り切らずにそういう話が出ると、酒を浴びるように飲んでしまうほど落ち込む。そういうところはあるが、これもやはりいちいち、人には言わない。
とはいえ、これは仕方ないことだと思う。スポーツでも同じだ。チームプレイにおいて高い評価と称賛を受けるのは、やはり派手なことをする選手たちだ。
6~9番打者や、監督以外の裏方を褒め称える声は少ない。だがその存在や思考無くしては、組織として、チームとして、あまりにも脆弱だと言わざるを得ない。
そう納得しているし、その生き方が嫌いじゃないので、僕は無理に日向に出る気がないというのが本心なのである。
幸い会社自体の規模が小さい分、そういったパフォーマンスや、論外だがおべっか等を使わないと頭打ちになる、ということもない。顔役にはなれないが、それで何不足だ。
ということで今日はこの辺で。