突然なんだという話だが、僕は声が低い。合唱をすればバス的なパート以外やった記憶もなく、サビで盛り上がらせてもらったことが無いように感じる。
まだカラオケに行っていた頃も、自分の音程がかなり低いところで止まるため、選曲にいつも苦労していた記憶がある。歌いたいものより、歌えるもの優先だったのだ。

そんなわけなので、僕は自然と、「自分の声は低い」ということを刷り込まれながら生きてきた。だがそれは、ある意味僕にとって、一つの誇りでもあった。
というのも、僕は声が低いタイプの人が昔から好きで、大塚明夫さんの声、山寺宏一さんの声、最近ならラランド・ニシダさんの声に惹かれるものがある。
そしてジャンルとして同じならば、例えば発声法を学び、練習することで、声の低さを弱点ではなく、武器として用いることができるのでは、と思うようになったのだ。
だから白状するが、社会人2年目くらいの頃に声優向けのトレーニングがまとめられた冊子を買ってみたこともある。それが生きたかどうかはよくわからない。
―しかしながら、そんな僕の自己評価が崩れるというか、そもそもそれは「こうあってほしい」というバイアスを多分に含んだアテにならないものだと気づく瞬間があった。
今日はそんなやるせない話を書いていく。
自己評価が曇らせる自分。

どういう流れか忘れたが、個別授業をしながら、生徒と声質の話になったことがある。僕は先述の通り、自分は低いということを前提に色々と話した気がする。
ただ、そのときの生徒(高2の女子)のリアクションは、色々と衝撃というか、「あっ、そうなんだ!」とハッとする感じで、今も僕の心に残っている。
「先生の声、どちらかといえば高めですもんね」
―これを聞いたとき、「マジで!?」と思う気持ちが滅茶苦茶先行した。我ながら低い声だという自覚があったのに、これでも高めという部類なのか、と!
・・ただ、この指摘によって、僕の中でバイアスが取れたのか、「そういえば・・」と思い当たる点がいくつも記憶から蘇ってきた。
例えば僕は自分の声を録音して聞くのは、最近別に恥ずかしくない。そのうえで、意識的に低く通る声を出せないものかと、ふと試みることがある。
そのたびに思うことは、「改めて聞くと、思ったより低くならないなぁ・・」ということに尽きる。意識した声で”低さ”を感じないなら、普段の声なら、なおさらだ。
男は大抵、放っておいても声は低めになる。その中でも低いとされる方々は、いわば偏差値60以上の”低さ”だと言える。僕はそこまでじゃなかった。ただそれだけなのだ。
・・だが、それならそれで、思うことはある。僕は低く通る声に”憧れて”こそいたが、好きな声質は他にいくらでもある。
例えば中村獅童さんの声、中村悠一さんの声、高橋克典さんの声等々。だから、僕は別に落ち込んでいるわけではない。
むしろ、「俺の声は低くあらねば!」という謎バイアスが取れた手前、独りよがりなそれではなく、仕事において活きるような声の意識を考えるきっかけになったとも思う。
どうでもいいが、僕は昔、少年野球をやっていた。その時一番通る声というのは、過度に低すぎず、かといって過度に高すぎず、ちょうどいい塩梅の音程だと記憶している。
意識としては、腹から声を出そうと思うと自然に出てくる声が、やはり一番僕にとっては通る声なのだ。だから発想を逆にし、その声を普段から出せるようになればいい。
それにそもそも、低い声は一歩間違えれば、ボソボソ喋る声色になり、根暗・陰キャといった印象に簡単に転じてしまう、そんな諸刃の剣であるともいえるわけで。
いやはや、自己評価なんてものは心底アテにならない。その生徒の何気ない一言で、人生を通して抱いてきたものが覆るとは、面白い話もあったものだ。
では今日はこの辺で。