精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

人生トップレベルの”虚無感”を味わっていたときの胸の内。

今、我ながらいつ以来ぶりかわからないくらい、腸が煮えくり返っている。この矛先は特定の個人ではなく、やはり自分自身に向いているのだが。

 

何が起きたのか。端的に言うと背信に尽きる。僕が依頼していた仕事を完全にほっぽり出されて他のことをされていることを、遠回しに報告されたのだ。

なるべくぼかしながら整理する。ある特定の曜日に、高校3年レベルの英語の授業が入り、責任が重たいということもあり、僕がそれを受け持つことになったのだ。

 

その間、僕はとある幼児向けコンテンツを監督していた。だが、正直それは僕じゃなくてもできる。そして、僕の校舎には自分を入れて社員が二人常駐していた。

 

僕が別の授業にかかり切りになる間、「この教室頼みます」と監督を任せ、僕は授業に入っていた。そんな期間が数か月あったのだが・・・。

 

「自分が必要な時に誰もサポートに入ってくれない」と、別の講師が不満を言っていたと聞いたのは、今日の話だった。それを聞いたとき、本当に意識が遠のく心持がした。

 

そのセリフが出るということは、僕がいない間、その人も教室内にいなかったことに他ならない。では一体、何をしていたのか?実は知っているが、ここでは言わない。

 

・・書けば書くほど、また怒りが蘇ってきた。その状態にあることに気付けなかったこと。認識がかけ離れた人を信じて仕事を託したこと。自分の無能さに腹が立つ。

 

だが、同時に別の感情もはっきり感じている。そして、その感情の方が、もしかしたら自分の真意という意味では大切かもしれない。

 

そう直感しているので、感情論にならないよう気を付けながら、記事を書き進める。

 

 

 

孤独は絶対に分からない。

今僕が感じているもの。それは寂しさだ。あるいは虚しさだ。自分と似た価値観・信念をもって仕事に当たる人が今の校舎に居ないことへの、言わん方無き虚無感である。

 

その人の理念は、同じ給料であるならば、仕事は少なければ少ないほど、楽であればあるほど良いのだろう、と正直思う。

 

あるいは、幼児向けコンテンツの監督等、自分に対して役不足ということが言いたいのかもしれない。そんな仕事に、自分を安売りする気は無い、と。

 

どちらでもいい。どちらでなくてもいい。つまり、結局監督はしてくれないということなのだから。これ以上ない嘆息が、自分の口から出た。

 

できる、できないという段階ですらない。しない。この状態が問題なのだ。講師に迷惑にかけたこと。生徒に提供する授業の質が落ちたこと。全てが問題なのだ。

 

だが、それらに対して無自覚で、だからこそこうなるまで自分の時間の確保をしていたということなのだろう。そう思うと、怒りではなく、嘆きしか込み上げてこない。

 

僕が思うことはただ一つ。「もういい」である。もう任せない。どんな弁疏れはしない。

 

そんなことをする前に、まずは迷惑をかけた講師に僕の人員配置能力の無さを詫びる。環境の改善に尽力する。そのために言行一致で取り組む

 

早く直接面と向かって会える日が来てくれないかと本当に待ち遠しい。その人が失った信頼を、その人に取り返させるなんて愚かな決断は、もうしない。

 

―昔から思っていたことでもある。熱量が違い過ぎる人に、僕がしている、したいと思っている熱量・綿密さのケアを求めること自体、間違っているのでは、と。

 

できないこと、苦手なことをさせるために別の人間が管理を強めることは、つまり不毛で仕方がないのではないか?改めて今、その意を強くしている。

 

もちろん僕にもできないことはある。例えば新規体験において、パフォーマンスとして聴講者が唸るような授業は僕にはできない。それを得ようと努力する気もない。

 

できない人にさせるために、それを管理・徹底させる人がいる。これは只の人材の浪費ではないかと思う。だから最初からそもそも配置しない。これを徹底しよう。

 

その時間、僕はテコでもその教室の管理から動かない。アポも入れない。授業も入れない。なぜなら、僕以外、僕のような責任感でそこを見れる人は”居ない”んだから

 

・・だから寂しいのかもしれない。したいことができないもどかしさに先んじて、僕の想いを汲んでくれる人がいないことが寂しいんだと思う。

 

僕は仕事をサボる人を見ると、実は苛立ちは覚えない。寂しさと虚しさを覚える。なぜなら、僕は仕事中にYouTubeを見ることもゲームをすることもないからだ。

 

この人は、少なくとも仕事においては相容れない。それがわかると、悲しくなる。悲しみは、自分が失ったもの、得られなかったものに向くという。納得だ。

 

もう誰も信じないというほど自棄になったわけではないが、この人は信任するに足るかどうかは、これまで以上に無邪気な感じで考えないことに決めた

 

一生懸命考えて、やって、気付けて、そして僕と似た理念や想いを持っている人は、一体どこにいるんだろう。そういう人とこそ仕事がしたいなぁと、何となく夢想する。

 

ただ、今の状況に関しては、「もういい」。たとえそれが僕の時間の使い方として最適解ではないにしても、これ以上傷は広げられないし、信じれもしないのだから。

 

では今日はこの辺で。

 

 

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