先日書いた「久しぶりに腸が煮えくり返るほど怒った話」の続きを少々。時間は経ったが、整理整頓が終わっていない部分があるのを感じているためだ。
ちなみにこの記事自体は、通勤時間にスマホへ吹き込んだ内容をChatGPTで整理し、それをさらに推敲しながらまとめている。

時間を置いたのもあってか、昨日の時点で感じていた憤りはすでに消えている。ただ、同時に強く感じた「虚しさ」と「空虚感」は今もなお心に残っている。
理由は分からないが、ただただ虚しい。もちろん、迷惑をかけた先生に対する申し訳なさはある。しかし、それ以上に強く感じるのは、何に対してとも言えない虚無感だ。
これを掘り下げた先にあるのは、僕の価値観の根っこの部分なのだろうか。それとも、何にもそこから出てこないのだろうか。
自分でもそこがわからないまま、進めていこうと思う。
「穴が空いた感じ」
過去に、この時と似た感覚を経験したことがある。それは、27歳のとき、現時点では人生最後にフラれた日の帰り道で、夜空を見上げながら感じたものだ。
これと非常に似ている。そしてこの当時と同じくらい、これは”強い”。この気持ちは自己分析が非常に難しく、何をどう言葉にするべきかが見当もつかない。
だから昨日、ChatGPTを使ってもう少し深掘りしてみた。何度もカウンセリングのような問答を重ねた結果、僕が強い喪失感を覚える際、そこに共通点があると分かった。
それは、「この人とは分かり合えない」という悟りだ。一方的であることは認めるが、積み上げてきた信頼、希望、そういったものが全て一気に崩れることともいえる。
今回、僕が強く思ったのは2つある。1つは、「この人は本当に管理業務ができない」というデータ。そしてもう1つは、「僕と労働観が決定的に違う」という現実だ。
僕は基本的に、今の環境をより良くするために、自分から能動的に動く。ただ、定義だけなら「やる気のある無能」の可能性もあるので、身の振り方には慎重になっている。
しかし、その人は「言われたことをやればいい」「自分で工夫することは単に労働量の増加に他ならない」という考え方なのだろう。
労働条件や休日出勤について厳しい意見を持っていることは知っていたが、まさかこの価値観を基に、「依頼した業務をしない」という判断をするとまでは思わなかった。
ここで完全に「もういいや」と思ってしまった。気持ちが切れた刹那である。と同時に、自分にも問題があったと、もちろん考えている。
無邪気に信じ、セーフティネットを設けもせず一任してしまったことが甘かった。今さらその人を責めても何も変わらないし、失った信頼が戻ることもない。
僕ができるのは、失われたものに執着するのではなく、例えば新たな仕組みを作り、再発防止のシステムを構築することだ。
しかし、頭では分かっていても、強い寂しさは残る。「分かり合えないのだ」と確信したときの喪失感は、かようなほどに大きいのかと、絶句する。
逆に、自分と同じような価値観を持つ人と働けたら、どれほど楽しく、どれほど幸せなのだろうかと、そんな「青い鳥」を探したい気持ちも、心のどこかに生じている。
正直、怒りはない。裏切られたとも思っていない。ただ、「これすらもやってくれないのか」というちょっとした、嘆きに近い感覚はある。
・・・僕は以前から、「期待する」という言葉が嫌いで、バイアスを持って人を見ないようにしてきたつもりだった。
しかし、今回はその「下げた期待」すらも裏切られたような感覚がある。とはいえ僕は、変わろうとしない人を変えようとは思わない。そんなものは時間の無駄だ。
ならば、線を引くべきところで線を引く。「何ならできるのか?」を確認し、それだけをやってもらう方が合理的だろう。その前提で、また新しい仕組みを作らなければ。
「自分がいなくても回る校舎を作る」という理想は、今の環境では夢物語に過ぎないと痛感した。これでは安心して病気になることもできやしない。
プライベートな時間を邪魔されたくない気持ちは分かるが、そのせいで他人に迷惑をかけるのは本末転倒ではないか。そう問いかけても、どうせ伝わらないのだろう。
珍しく、悲しさや虚しさ、そして残念な気持ちを強く感じる。もう、今後どういう顔をしてその人と接すればいいのかも分からない。
僕にはもう怒りすらない。ただ、「この人とは本当に一緒にやっていけると思っていた」―という希望が完全に消えたことは、寂しく思う。
結局、先日の記事のまとめにも書いたように、僕の本心としては「もういい」、この言葉が、一番しっくりくる結論である。
ということで、今日はこの辺で。