大人っぽさや子供らしさについて、たまに考えることがある。僕は前者は合理的、後者は感情的ということだと思っていた。
もちろんそういう側面もあるだろうが、子供はたまに、驚くほど合理的なことがあると思いつつある。したくないことはしない、したいことだけする、なんてまさに。
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それが稚気であると指摘され、恥ずかしいことだと刷り込まれ、迎合するよう圧を掛けられ、人は大人になっていくのではないか。僕はそんなことさえ思う。
子供は合理的だ。その仮説に立つなら、合理的でありたいなら子供の思考、判断を学ぶことが”合理的”だと言えるだろう。
子供たちこそ本当の先生なのかもしれない。そう思いながら、今回も読んでいこう。
- 3月3日(月) 縁を断つ。
- 3月4日(火) 将来の夢なんか、今叶えろ。
- 3月5日(水) Quitの力。
- 3月6日(木) Think Line a Freakの本髄。
- 3月7日(金) 「I don't know」の力。
- 3月8日(土) 真の好奇心はこう問いかける。
- 3月9日(日) データに運んでもらう意識。
3月3日(月) 縁を断つ。

最も悔いのない「止める(quit)」選択だったと後から振り返れるのは、それまでだらだらと続いた縁を切るような決断に多いという。
実際僕も、高校進学、大学進学等を経て自然に切れた縁も、喧嘩してこっちから断ち切った縁も、それぞれある。だが不思議と、それを悔やむ気持ちは少ない。
時折IFストーリーを考えることはあるが、ある程度話を進めたところでその不毛さに気付いてしまい、興味自体がすぐに薄れてしまう。
縁を切ることがどうしてこうもすっきりしたその後を持ってくるのだろうか。まだまだ実例が乏しいが、勇気の出る指摘だと思う。
3月4日(火) 将来の夢なんか、今叶えろ。

将来の夢を長尺で追う人がいるが、僕はそれを尊敬半分、危なっかしさ半分で見つめている。なぜなら、夢が本当に自分の天職かなんて、不透明だからだ。
あれだけなりたい、なりたいと憧れていた仕事に就けた。それこそそのために勉強にすべての時間をささげ、大学もそれで選び、途方もない年月とお金を投資した、と。
だがそれでも、業務内容如何のみならず、そこの人間関係まで踏まえて、天職を引き当てる確率は恐ろしいほど低い。期待値でいえばびっくりするほどの数値なのだ。
将来の夢などすぐ叶えろ、という助言は、暴論ではなく、一番安心なリスクヘッジの心構えではないか。僕は最近、そんな風に捉えている。
3月5日(水) Quitの力。

あれもこれも手を出す。これもこれで子どもの特徴だが、そこだけ真似しても、自分の時間や体力が無計画に分散するだけだ。
子どもが持つもうひとつの大事な側面を忘れてはいけない。それは飽きやすいという点だ。
あらゆるものに手を出しながらも、面白くなさを見出だしたらすぐに止めることができる。
この能力は二つセットで初めて建設的なスキルになる。だが大人になると、得てして後者をためらいがちになるものだ。
僕の子どもっぽさとは、まだ完成度が低い。この章を読んで、そう気付かされた。
3月6日(木) Think Line a Freakの本髄。
目の前の出来事を、少しでも面白く、少しでも建設的に解釈するには、どうすれば良いか。
こう考えると難しい話だが、根っことしては「遊びを面白くするためのルール作りってどんなのがあるかな?」といった子ども特有の発想と地続きだ。
世界を違った目で観察する。社会に押し付けられたメガネを意図的に外す。バイアスを認識した上で意識を向ける。
言っていることはどれも同じだ。フリークのように考えること。その意味は簡潔にして本当に深い。
3月7日(金) 「I don't know」の力。

著者がインタビューなどで一番驚かれることは、「知らないことを知らないと平気で言えること」だという。いわゆる知識人ぶるところが皆無な点が意外なのだそうだ。
筆者たちはむしろ、知らないものは知らないと言わなければ、結果それが分からないままになるんだから損だよね、というスタンスらしい。なんと素朴なのだろう。
僕もそういう節があるのは認めるが、なぜ知らないことに対し、素直にそういうのはあんなにも難しいのだろう。プライドだろうか?
それとも、知らないことに対しては知りたいという欲が働き、そちらの方が潜在意識において強い力を持つということなのだろうか。
いずれにせよ、僕ももっと堂々と「しらね」と言えるようになりたいと思った。主に、自分に対して、だけど。
3月8日(土) 真の好奇心はこう問いかける。

何か事件が起きたとき、トラブルが起きたとき、こういった際、反応は得てしてどこか感情的であり、かつメディアはそれを扇情する感じの構図をどうしても否めない。
例えば痛ましい事故があった際、真っ先に報道されるのは遺族のコメントであり、献花に訪れた人の様子であり、故人の人望の篤さだったりする。
即ち、なぜそれが起きたのか、その原因はなんなのか、防げた術は本当になかったのか、そういう感情をめくった下にある部分は、基本的に誰も意識を向けないのだ。
本当に好奇心が強い人は、感情よりも「知りたい」が優先する。つまり、そういった喜怒哀楽に囚われる暇があったら、真の原因を追いたいということらしいのだ。
なんとスピード感のある、なんと建設的な考え方なのだろう!この思考を淡々と語っていたことに、僕は強い感動を覚えている。
3月9日(日) データに運んでもらう意識。

学者にとって、どんな姿勢でデータと向き合うかは、研究結果の質を決める大事なファクターだと言える。それはもちろん、経済学も例外ではない。
二人の著者は、「先入観をかなぐり捨てて、データが教えてくれることを一切先入観持たず、恐れず、その導きに乗る感じ」といった話を書いていた。
結論・結果をありきにしてデータを眺めると、そこには必ず恣意的な操作やバイアスが生じてしまう。それを意識的に解除するのは困難だが、心構えで軽減はできる。
ある意味痛快な結論でありながら、僕も意識した方が良いであろうほど基本的な考えなんだと納得している。
では今日はこの辺で。