今日は自分への戒めとして、「エネルギーの枯渇は、真綿で首を絞めるよりも遥かにゆっくりやってくる」という話を残しておこうと思う。
昨日は31日ぶりの完全な休みだった。ずっと溜まっていた精神的な緊張をほぐし、気分転換と充電をするにはこの日しかないと、前々から思っていた。

特に目的を決めず、行きたい場所に行き、好きなだけゴロゴロするつもりで過ごそう。そう考えていたのだが、いざ蓋を開けてみると、文字通り、全く動けなかった。
普段より2~3時間長く寝ても、ベッドから起き上がることすらしんどい。ご飯を食べるのも面倒に感じ、遊びに出かけるどころか、その発想すら浮かばなかった。
結局昨日は一日中、寝ているか、YouTubeを見ているかのどちらかだった。風邪の症状が一切ないコロナ感染時とでも形容すべき、無気力極まりない1日であった・・・。
これはもはや、エネルギーが完全に枯渇し、エンジンをかけるための燃料すら残っていない状態だったと言ってもいい。
意図せず休息に徹することになったが、夕方にはなんとか体が動き、コンビニで大量におやつを買い、ドカ食い気絶部した結果、少しだけ持ち直したような気がした。
そして今は元気に職場でキーボードを叩いているわけだが、この経験はきちんと振り返っておかないと、色々勿体ないと思い始めている。
ということでここから、本題へと入っていこう。
真綿で首を絞めるよりも遥かにゆっくりやってくる。

今回、改めて考えた結果一番恐ろしかったのは、「そこまでエネルギーが切れていることに全く気づいていなかった」ということだ。
正直、自分の限界が近づいているならば、そこには何らかの兆候が必ずあって、それを察知するのは難しくないと思っていた。しかし、断言するが一切の自覚がなかった。
考えてみると、脳が疲労を誤魔化すために、ずっと「脳汁」的なものを出し続けていただけなのかもしれない。何かしらの興奮状態を維持し、無理を押し通してきた、と。
しかし、休みという「仕事のスイッチ」が完全にオフになった途端、それまで隠れていた疲労が一気に表面化したのだろう。
その結果、何もできないほどの状態に陥ったのではないかと思う。それこそ、1ヶ月かけて蓄積し続けた巨大な疲労が一気に破裂したようなものだ。
丸一日動けなくなるほどの膨大な疲労を抱えていたのに、それに気づかなかった。これが最大の問題にして、それに気づけたことが、唯一の収穫だったのかもしれない。
実際、今日は完全に燃え尽きたオフの翌日である。本来なら休んでもいいレベルの疲労が残っているはずなのだが、定時より早い時間に、こうして職場に向かっている。
本調子でないのは明らかで、体はまだだるい。まるで病み上がりのような感覚が残っている。 まさにコロナから回復した数日後とでもいうべき、身体の重さだ。
つまり、僕は本来「病み上がりレベルでしんどい」状態にありながら、それに気づかずに走り続けていたということになる。一体何日がその状態だったのだろうか・・。
このまま限界を超えていたら、もっと取り返しのつかない状態で倒れていたかもしれないと思うと、正直怖くなる。枯渇は真綿より気配がないのだ。
―よく「うつ状態はじわじわと進行するのではなく、突然訪れる」と言われるが、それが妙に納得できた。
今回のケースも、じわじわと疲れが溜まっていたのではなく、ある日突然、すべてが崩れたような感覚だった。
「休んだ」と言えば聞こえはいいが、これはもう「休まないとダメなレベル」だった。僕はもう、無邪気にアドレナリンを垂れ流すには、年を食いすぎたのだ。
過去には37連勤したこともあったが、そのときはまだ、唯一のオフで遊びに行く余裕があった。しかし今回は、比べ物にならないほどの疲労を抱え込んでいたのだろう。
先述の通りの年齢の影響なのか、それとも単に以前とは異なる種類の負担がかかっていたのか。それは分からない。
しかし、これを機にしっかりと反省しなければならないと感じた。じゃなきゃ僕は、無理が祟って己を近く、ぶっ壊す。
長生きは別にしたくないが、今すぐ死んでもいいほどやり切っているわけでもない。では今日はこの辺で。