精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

一つの感情に浸る・・なんてのは贅沢な時間なんだな、と思う。

今日は、公立高校の合格発表の日だ。塾業界において、この日は最も胃が痛む日でもあり、同時に何かが吹っ切れる日でもある。

 

当然、嬉しい報告も、悔しい報告も、どちらも自分の耳に届く。そして、それぞれの生徒に対して、相応の対応をする必要はもちろんある。  

 

合格した生徒には、心からの祝福を伝えたいし、不合格だった生徒には、その悔しさを受け止め、支えてやりたい。そして僕自身、その感情を味わわないと駄目だとも思う。

 

だが、実際にはそんな感情に浸っている余裕はない。授業は通常通りあるし、今後の広報計画も考えなければならない。新規の問い合わせ対応や営業活動も待っている。  

 

例えば受験を描いたドラマや漫画があった際、不合格通知に際して、雨に打たれながら夜空を仰ぎ悔しがる描写を散見するが、あの時間はなんと”贅沢”なのだろうか


感情に浸る時間がない、というのは言い訳ではなく現実だ。もし、リーダーが1つの感情に囚われて動けなくなったら、周りの人間はどう思うだろうか。  

 

僕は感情に対して向き合いたい。だが立場や現状がそうさせない。それに対して苦悶するのはもう辞めた。その苦悶の時間がもったいないためだ。

 

今日はそんな、なんとも言えない現状の胸の内を書いておきたい。

 

 

仮面を装備するかのごとく。

 

感情はもちろん大事だ。しかし、仕事においては「その感情をどう乗りこなすか」こそが強く問われる。感情で振り回されていては、マジで仕事にならない。

 

例えば、自分がもしもっと感情的な人間だったら、今頃落ち込んでいるか、逆に高揚しすぎているかのどちらかだろう。

 

だが、実際にはそのどちらでもない。正確に言えば、「感情に浸りたいが、それに浸ることができない」という状態の方が適切だ。  

 

この自分の状態について、少し考えてみた。単なる感情の鈍化なのか、それとも別の何かがあるのか。  

 

以前、ChatGPTに相談したとき、「感情の鈍化ではなく、理性の成熟ではないか?」という指摘を受けたことがある。  

 

つまり、一時的な感情に流されるのではなく、長期的な視点を持ち、それを冷静に受け止められるようになったということになる。

 

感情を持たないわけではない。ただ、それに振り回されることなく、必要な行動を選択できるようになったのではないか、という考え方だった。  

 

それ自体は納得感がある。ある意味の防衛機構として、僕はこの感情の鈍化を身に着けたように思うのだ。それには、別の原体験が隠れている。

 

感情が死んだあの日。

 

昔、6年間塾に通ってくれた生徒がいた。人生初の試験である中学受験は、不合格に終わってしまった。それでも塾を続けてくれて、高校受験では進学校に合格した。

 

僕としても「やるべきことはやった」と思えた瞬間だった。憑き物が取れて、すごく気持ちが軽くなったあの感じは、まだ記憶に残っている。

 

だが、その生徒は高校に進学したものの、学校の雰囲気になじめず、結局2年生になる前に退学してしまった。バラフライ効果だと思うが、合格が彼を不幸にしたのだ。

 

この話を他の生徒から聞いたとき、心に大きな穴が空いた気がした。受験はゴールではなく、ただの通過点。むしろ、その先の人生こそが重要なのだと痛感した。  

 

逆に、高校受験でうまくいかなかった生徒が、その後の環境で素晴らしい出会いをし、結果的に「成功した」と言える人生を歩んでいる例もある。  

 

これらの経験があったからこそ、「合格=成功」「不合格=失敗」という単純な図式で物事を捉え”られなくなった”。一点一点で判断することが愚かに思えてきたのだ。  


この仕事を続ける限り、受験の合否に一喜一憂することは避けられない。しかし、目の前の結果だけに囚われず、その先を見据えた判断をすることが求められる。  

 

感情を憑依させるより、むしろ、より大局的な視点で生徒の未来を考え、思考・発言することが重要なのではないか。それが、僕にとっての「責任感」なのかもしれない。  

 

では今日はこの辺で。

 

 

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