最近、僕の中で吹っ切れつつある。元々僕は僕がいなくても円滑に回る組織こそ理想と考えており、だからこそ最初から属人化を回避するような行動を採り続けてきた。
しかしやはり、もっと表に出て、堂々と評価されないといけない。もっと僕の我を出して、僕のキャラで校舎を運営しなければならない。属人化は推し進めるべきだ。
今までの方針を転換し、僕がいなければ没個性まっしぐらになるくらいの勢いでないと、大手に潰されるだけ。そのことに、何度考えても着地してしまう。
この2年間やってきたことの成果が、僕の思うところでなかった以上、施策を変えねばそのアウトプットが続いてしまう。そういう意味で、肚は決まった。
そしてここからが不思議なのだが、肚が決まると、むしろ表に出たくなってきた。例えば生理的に嫌いなビラ配りも、今は色んな仮説を引っ提げて繰り出したいほどだ。
例えば同封物があった方が良いとよく言うが、それは消しゴムがいいのか、蛍光ペンがいいのか、はたまたもっとオリジナリティを出した方がいいのか、等々。
そういう風に自分が仮説検証したい、テコ入れしたいことが全て、表に出ることへ通じていくことが最近は不思議でならない。覚悟とはつまり、表に出ることなのか。
今日はその仮説を、色々と思索してみたい。
「顔」であることを恐れない。
中小なのに生徒数が多い塾は得てして、そこに圧倒的人望を持った人がいる。その人望もとい個性、いわばカリスマこそが、大手と張り合うにおける最たる武器となる。
大手は顧客を囲い込む。ならば中小はファンを多く持たねばならない。そしてファンを作ることを科学すると、そこには必ず”表に出る”プロセスが必要となるのだ。
今はじっくりと【夢と金】を再読中なのだが、その観点が抜けていた自分に慄然とするところがある。だが同時に、まだやり直しが効くとも思っている。
とここで、急に思いついた疑問がある。ここは少し冷静に考えたい。顔役であること、表に出ることは、果たしてそんなに恐れるべきことなのだろうか?
僕らはこういうとき、得てして極論を考えがちだ。登録者数100万人以上のYouTuber、爆発的に売れた芸人、ネットミームになった人たち、等々。
ああいう人たちにはファンだけじゃなくヘイトも相当数集まり、中には私生活・人生を破壊される人もいる。それを見ると、確かに恐怖感を覚える気持ちは理解できる。
だが、例えば僕がそのレベルのインフルエンサーになることは、中小の地方塾を安定経営に戻すために必須かと言われれば、絶対にやり過ぎだろう。
文化祭のダンスをそつなくこなすために、プロが経営するダンス教室に入るくらいズレている印象だ。そこの恐怖感をまず理性で制御したい。
それに、”売れる”ことはそんなに人生を壊さない気もしている。人の噂も七十五日、一瞬ヒットしたところで、やはり所詮忘れ去られていく運命なのではなかろうか。
例えば僕は、10年前にブレイクしていた芸人を思い出せない。調べてみると、あまりにも懐かしく、一部を除いて今は見かけない人が並んでいる印象だった。
中には、今も人気の人がいる。爆発的なブレイクこそないが、安定した支持を得ている人たち。その人たちの共通点は何か考えたが、それは人間的魅力の発信の有無だ。
それが非常に上手だと思うのが、世界の果てまでイッテQだと思う。あの番組は演者の素の様子、挑戦と成功・失敗を余すことなく取り上げて、コンテンツにしている。
【夢と金】の応援シロの設計が、番組内において、演者一人一人に関して完成し、更新され続けている。今気づいたことだが、だから面白いんだとすごく納得した。
一方、それが無い、その人の人となり、ネタをしていないときの様子が垣間見えない人たちは、シビアにも姿を消したと言っていいのではないだろうか。(解散した人もいる)
これを塾講師に当てはめるとどうなるか。どれだけ授業が上手くても、その人となりが不明で、演じた姿以外が一切目に見えないと、どうしてもファンは生まれえない。
ぶっちゃけ、授業の上手さという競争は、完全に煮詰まっている。正直授業が下手な講師を僕は知らない。万人に等しくマズいラーメン屋を探す方が難しいのと同じだ。
だからこそ競争は、より広範に、より立体的に、広義の人間的魅力を争う部分になっていくのだと思う。属人化を辞めた果ては、シビアに言えば大手の劣化コピーなのだ。
―やはり、冷静に考えても、僕は顔であることを恐れてはいけないのだとつくづく思わされた。どれだけ謙虚さを推す人も、それでも顔を出している例は多い。
僕のこれまでが間違いだったかどうかは、違う手を試すことでハッキリするだろう。覚悟とはつまり、表に出ることなり。しばらくはこれを追求しよう。
では今日はこの辺で。