自分の塾・校舎が順調だったときと、苦戦が始まったときで、何が異なるのか。時代の流れという解像度が低い言葉を使わず、それを分析する日々を続けている。
そしてその中で、一番心当たりとして大きいのが、「イベント」だ。気づけばコロナ禍を一つの”言い訳”として、イベントの頻度がめっきり落ちてしまっている。
例えばコロナ前までは勉強合宿なりなんなりやっていたが、アフターコロナたる今も「利益が出ない」「手間暇に見合わない」ということで、縮小したそれになっている。
原因がそれだけとは言わないが、イベントへの熱量が冷めたタイミングで、衰退の予兆が芽吹いたような気がどうしてもしている。
今日はその理由と、どうすれば立ち直せるかの仮説を考えたい。
ファンコミュニティが無い場所は潰えるか、吸収される。
大手に吸収されずに生き残り、そして繁栄まで果たしている企業は、得てして独自のファンコミュニティを有している。
単に店の機能を使っている、という意識ではなく、ここにいる人が、この場所そのものが”好き”という人たちが、強固な基盤となり、組織そのものを支えている。
この帰属意識は、例えば大手コンビニには抱きにくい。なぜなら、そこが好きで使っているというより、そこに”あって便利だから”使っている人が大多数だろうからだ。
逆にそれを抱きやすいのは、個人商店などだ。実際、最近僕の地元で長年営まれていた釣具屋が閉店したのだが、利用客は口々に、”店主が”店を仕舞ったことを嘆いていた。
釣具屋が閉店したこと自体ではなく、気のいい店主と会えなくなることを残念に思う人ばかりで、僕はその店が持っていたコミュニティの強さを身に染みて考えさせられた。
余談だが、この釣具屋が閉店したのは経営不振ではなく店主の年齢的なモノであるという。もし前者なら、それを知ったファンが積極的に応援し、それを救ったことだろう。
ファンコミュニティを持たざることは、こと中小企業においては、丸腰で大手に、大手のルールで戦うことと同義であり、それは敗北することが明白だ。
この釣具屋の例からも、僕はそのことを思わずにはいられないのである。
イベントが生む帰属意識を軽視した末路。
イベントはどこか、小手先とか子供だましとか、そんなことをするくらいなら授業にもっとテコ入れしろとでも言いたげなコメントを貰うことがある。(主に内部から)
繰り返すが、それはつまり大手と、大手のルールでやり合うことであり、それは必ず負ける愚策だということは念押ししておきたい。
イベントは、顧客をファンに引き上げ得る施策の一つだ。内輪ネタをどんどん増やし、帰属意識を増やし、思い出を共有し、そしてファンになっていくのだ。
このことは、過去の思い出を振り返っても自明である。例えば塾に期待する”機能”は、成績の向上、学習場所の提供、質のいい指導である。そしてそれだけで、実はいい。
だがそこにプラスアルファとして、個人的で感情的な体験が紐づくと、すごく強固な絆がそこへ懸かる気がしている。
僕がそこへ所属していた日々を今でも思い出すコミュニティには、必ずイベントがくっついている。旅行、バザール、BBQ。あの頃は今でもすごく愛おしい。
一方、そういったイベントが一切伴わない場所において、僕はそこに個人的なファン感情を抱いたことは一度もない。記憶からも完全に消えているくらいである。
イベントを軽視した先に待っているのは、記憶から完全に消えてしまう未来。そう思うと、イベントを軽んじる人はリーダーになってはダメではないかとさえ思わされる。
僕も早速、どんなイベントをすると心が躍るか、まずはそこを起点に考えてみようと思う。発信の巧拙は後から考えればいい話だ。
では今日はこの辺で。