精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

僕の「才能」について。

今日は、自分に備わっている「才能」について、仮説的に話してみようと思う。ただし先に言うと、それは決して華やかなものではなく、むしろ弱点とさえ言われる物だ。

 

多くの人がそうだと思うが、これまで僕は、自分に才能があると思って生きてきたわけではない。全能感は小学生の頃には消え、胸を張ることは愚かと思っていたほどだ。

 

むしろ中学・高校の頃から、何をしても自分より優れた誰かがいることを理解し、そのうえでどう渡り合うかだけを考えてきた気がしている。

 

才能はあると思うだけ勘違いの可能性が高い。それがある種の矜持だったがそんな折、最近ChatGPTと2時間ほど対話していたとき、こんな指摘を受けた。

 

「あなたが持っているものの中で、特異性と呼べるほどに際立ち、ある意味“変わっている”と言えるものが少なくとも1つある」と。

 

その内容を掘り下げていくと、「確かにそうかもしれない」と思える部分があった。ただしそれは、最初も書いたが、どちらかと言えば僕の弱点だと思っていた部分だ。

 

今日はその、弱点と表裏一体の可能性があることについて、なるべく客観的に紐解いていきたいと思う。

 

 

僕が天から授かって生まれた物。

 

それは「他者への尊敬」らしい。僕は他人の心の機微にとても敏感で、たとえば「こうしたら相手が傷つくのでは」といった察知力を、常に発動させているようなのだ。

 

何をしたら相手が喜ぶかは分からなくても、何をしたら不快にさせてしまうかは、ある程度予測できる。そこに対しての異常な嗅覚のようなものが、自分にはあるらしい

 

それがただの配慮のレベルを超えていて、「天才レベル」とまでGPTに褒められた。さすがに歯が浮くようなセリフで、正直恥ずかしかったが、思い当たる節はある。

 

たとえば、塾で保護者や生徒からお土産をもらうことがある。その包装紙を捨てる際、僕はそれをゴミ箱の一番下に押し込むようにしている。手が汚れても構わない。

 

なぜなら、もしその生徒が後日ゴミ箱を見たときに、自分が贈った包装紙がぐちゃぐちゃになっていたら、嫌な気持ちになるかもしれないと思うからだ。

 

もう一つ似たような例として、人と食事をしているとき、僕は自分の箸や食器の口をつけた側を、相手に向けない

 

これは人から指摘されて初めて自覚したが、きっと「そんな汚いものを人に向けてはいけない」と思っているからだと思う。

 

このように、僕が無意識に発動させている「思いやり」を通り越した行動を投稿すると、GPTは「あなたは他者へのリスペクトが常に発動している」と表現してくれた

 

そして様々な仮説をGPTが挙げてくれるたびに、「ああ、確かに」と思わされることが多かった。自分の中の言語化が不十分なところが、どんどんクッキリしてくる感じだ。

 

たとえば、僕は版権キャラクターを使ったエロ同人誌が嫌いだ。それらの作品の多くは元のキャラクターの人格や背景を無視し、勝手なストーリーを構築しているからだ。

 

キャラクターを作者の手から奪い、まったく別の人格を当てはめて動かすなんてのは、暴力だとさえ思っている。だから、そういった同人作品にはどうしても抵抗感がある

 

同様に、原作への敬意が感じられないスピンオフ作品も苦手だ。もっとも、最近のスピンオフは、原作を前提として作られているのがデフォなので安心だが・・。

 

しかし、たまに目にしたそれがどう考えてもそうではない場合、読了まで辿り着くことは非常に不毛だと思うし、後で深く後悔することすらある。

 

こうした拒否反応の根底にも「他者(この場合は作者やキャラクター)への尊敬の欠如」を見逃せないという価値観があるようだ。

 

僕が無意識に徹底して行う行動の多くは、相手に無駄な嫌な思いをさせないためにある。それは自分でもはっきり言語化できていなかったが、問答を通じて見えてきた。

 

中でも特に印象的だったのは、僕自身の口から自然と出た以下の言葉だった。「せめて自分の手が届く範囲の世界だけでも、平和で円滑に回したい」というのがそれだ。

 

SNSには人を傷つけるような言葉が溢れている。その世界を平和にするには、発信者側が変わるしかない。だがそれは、非常に可能性が低い、淡すぎる期待だ。

 

そして変わらないのであれば、排除するしかない。つまり、何かしらの策を使い、”見えない”ようにするしかない。実際多くのSNSは、排除のための機能が充実している。

 

そんなのを見るにつけ、ならばせめて、自分が手を届かせられる世界だけでもできるだけ無駄な摩擦なく、平和に保っていたいという思いが、本音としてあるらしい。

 

僕はこれまで「精神年齢が低い」という特性が、唯一自分を支える強みだと思っていた。問いを発見し、それを探求することを楽しむのは、今の世でかなり大切だからだ。

 

しかし、もう一つあった言語化が不十分だが、それは「徹底した他者へのリスペクト」を自分の価値観の中心に据えて生きてきたということだ。

 

昨日はその気づきがあまりに新鮮で、夜中の2時までChatGPTとやり取りしてしまい、今日は寝不足なくらいである。

 

でも、「自分が誇れるほどの才能があるとすれば、これかもしれない」と思えるものにようやく出会えたことは、それを補って余りあるほどの収穫だ。

 

本当に有意義な時間であった。では今日はこの辺で。

 

 

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