精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

”ネタ”になる覚悟。

今日は「”ネタ”になる覚悟」というタイトルで、僕が最近結構必死で考え続けていることを記事にしたためていこうと思う。


これは自分の独自理論というより、多くの人がすでに言及している内容を、自分の言葉で整理し直したものにすぎないというのは、先に念押ししておきたい

 

さて。人の魅力とは何かと問われれば、その一面として、「多くの人の話題にされること」だと僕は考えている。  


そしてここには、“ネタ”が社会的に抹殺されるレベルの不祥事でない限り、多少の悪事も含まれる。ある意味芸能ゴシップもまた、ネタを提供したために起こる出来事だ。

 

とはいえ「悪名は無名に勝る」という言葉があるように、たとえそういう類のネタにされようと、一概に悪いとは言えない。まさに諸刃の剣だと感じる。

 

実際僕自身、本当に魅力的だと思う人については、周りの人に対して教えたくなる。面白さ、ユーモア、賢さなど、感動したエピソードを自然と話したくなるのだ。

 
では、こうした魅力は、果たして自分で意図して生み出すことができるのだろうか?これが、いまだに試行錯誤中のテーマである。

 

てことでここから、より丁寧に、その辺を紐解いていきたいと思う。

 

 

まな板の上に自ら寝転がれるか?

 

口コミとは何か。端的にいえば、これは「良い評判」と言えるだろう。だがその実は、圧倒的能力ではなく、何かしらのストーリーであることが多いと感じている。

 

そう思えば、いかにして人の記憶に残る面白さや感動を提供できるかが大事だと言える。人望や魅力溢れる人は、意識的か天才かはさておき、これが極めて上手だ。

 

これに関しては、既に数々の名言や助言がある。古いものでは、戦国時代辺りの武将の言葉にも、なにか似た意味合いのものがあったと記憶している。  


それらを総じて言えば、「人のネタになる力」は、歴史を超越し、時の試練に耐えきった、人間社会においての魅力を語るに外せない、重要な要素なのだと僕は思っている。

 

とはいえ、なぜこの人のことを語りたくなるのか、あるいは語りたくないのか、というのは非常に難しいテーマだ。揺さぶられるのは感情であり、理性ではないためだ。


実際、周りの人から、僕の知らない誰かの魅力を聞く機会は意外と少ない。もしかしたら、それは再現性などまるでない、超高度な業なのかもしれない。

 

しかし、そうした稀な存在―誰かの口から自然と語り出されるような人達―には、ある共通したものがあると気づいた。それは、独自の哲学とセンスだ。

 
彼らの行動理念、そしてそこからアウトプットされる行動は、僕らの常識の外にある。しかしその「非常識」が他人の迷惑とならず、むしろ強い納得感を伴うのが特徴だ。

 

言い換えるなら、そういう人は「我が道を行く」タイプだ。社会と折り合いをつけつつも、自分独自のルールと世界観を貫いていること。

 

これが、「語り継がれる人間」の二大条件だと考えている。そしてこれは、両方持っていないと意味がないと言えるだろう。

 

例えば、我が道を行くという意味では迷惑系YouTuberもそうだが、彼らの「実は傑物である伝説」が語られることはほとんどない。シンプルな実害だからだ。

 
やはり語られるのは、社会に攻撃性を持たず、それでいて自分の世界を持って生きている人たちである。彼らこそが心に強く刺さり、「語られる存在」になるのだと思う。

 

そしてこのテーマを考えていくと、やはり最終的に行き着くのは「属人化」である。逆にその対極にある「脱属人化」、すなわち組織としての存在は、語られにくい。

 
組織丸ごとイイという話も稀に聞くが、ほとんどの場合「あの店の〇〇さんがいい」といった具合に、個人に帰結している。僕の過去の経験からも、そのことは言える。

 
かつて、僕は大学受験のために1年間ほど予備校へ通ったことがある。環境を変えたいという思いはあったが、決め手になったのは「友人の紹介」だった。

 

その友人は「うちの塾がいい」とは言わなかった。代わりに「今受けている英語の先生がめちゃくちゃ面白くて分かりやすい」と語り、その面白さを熱心に語ってくれた

 

その話に引き込まれた僕は、「そんなに面白いなら受けてみよう」となり、初めて勉強に前のめりになった記憶がある。

 

実際、その先生は英語が苦手な生徒向けの講師だったらしく、当時英語が得意だった僕は「君には合わない」と言われ、別の講師に担当が変わったのだが・・。

 
でもその講師の授業も面白かったので、結果的には良かったと思っている。そして僕は、今でもその英語講師の話を他人にすることがある。


「授業がすごくて、それでいてこんなクレージーな一面があって」と語るわけだ。つまり、語られる存在には何らかの「極端さ」があると僕は思っている

 

考え抜かれた結果として、「これがやりたい」「これはやりたくない」と明確に定めている人ほど、極端な選択をしている傾向がある。

 

そして、そういう人は、他人に迷惑さえかけていなければ、やはり面白い。こうした濃厚な“原液”のような人物こそ、人の口から語られる存在にはなれるのだろう。

 

誰かが言っていたが、これは「カルピスの原液」に例えると分かりやすい。原液のままでは飲めないが、水で割ることで多くの人に「美味しい」と思ってもらえる

 
まさにその通りだと思う。

 

じゃあ、僕自身がカルピスの原液になれるのかといえば、やはりまだまだ足りていない。これは主観的にも客観的にもそう思う。

 

最近は少し変わり者だと言われるようになったけど、それでも僕はまだ自分のことを「まとも」だと思っているし、かつ没個性的でもある、と。

 
だからこそ、人の“ネタ”になるような生き方を、もっと意識的にしないといけないと思っている。ただ、無邪気に、思慮もなくこれをやるのは、考え物だ。

 
「これをすればウケる」と思ってやると、だいたいスベるし寒くなる。 「ネタになろう」と狙ってはいけないのだ。自分を貫いた結果、それが「面白い」と思われる。

 

この偶然の一致―いわばミラクル―を起こす必要があるとしたら、それは高度な職人技であると同時に、もはや偶然に近いとも言える。

 

僕の経験値ではまだ、そのあたりが見えていないのが正直なところだ。というわけで、まとまりはまったくないが、現時点で考えていることをつらつらと書いてみた。  


何か引っかかることがあれば、参考にしてもらえると嬉しい。では今日はこの辺で。

 

 

にほんブログ村 教育ブログへ
にほんブログ村 にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村 ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村