精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

雨が降っても自分のせい、と思っておくと何がイイのか?

今日は、自分の中で長らく違和感を伴っていた、”ある言葉”の解釈が変わった、という話を書いておく。

 

確か松下幸之助氏の言葉だったと記憶しているが、「雨が降っても自分のせい」というフレーズがある。

www.exness.co.jp

 

これはうろ覚えだが、確か斎藤一人氏も著書で紹介していたくらいなので、著名な経営者たちの間では共通認識のような考え方なのではないか、という印象がある。

 

しかし僕はこの言葉について、現代においては非常に危ういものだと考えていた。雨が降っても自分のせいだというならば、すべてが自分の責任になる。

 

つまり、「自分が悪い」と常に自分へグサグサと自責の針を刺し続けるような思考が生まれるのではないか。そう思っていたのだ。

 

僕みたいな自己肯定感を無邪気に持てないような人間は、この言葉を真に受けるとどんどんメンタルが病んでいくのではなかろうか。

 

そうした懸念もあって、この言葉に対しては距離を取っていた。「へぇ、そんな言い回しもあるんだね」といった程度の受け止め方をしていたのだ。

 

だが今日、予定していたプランがすべて崩れる出来事があった。それに対する我ながら意外なリアクションがきっかけで、上記の言葉の意味が突然変わったのだ。

 

てことで頭でっかちになったが、本題に以下入っていく。

 

 

無駄なものに振り回されないために。

 

そのとき自然と浮かんだことは何か。それは、「そんなもろいプランを考えていた僕が悪いよね」ということだ。

 

また、「ここで他人に責任を求めても意味がないし、自分が悪くない理由を並び立ててもそれはクソ不毛だよね」とも感じた

 

実際顧客からすれば、もともとの計画を予定通り進めてもらうことが最優先であり、誰かのせいにして時間を浪費するのは本当に無駄だと自然と納得できたのだ。

 

うじうじと他のことを考えるのは、実はその方がよっぽど面倒である。誰のせいといった糾弾や、戦犯のつるし上げが何か生産的だった例を僕は知らない。

 

それに、責任者の特権は、自分でケツを拭けることだ。だから、「僕が悪いことでいい」と割り切り、とにかく受け止めて前に進めることが大事だと、”自然と”思えたのだ。

 

このときだ。タイトルにも挙げた言葉の解釈が、自分の中で急に変化したのは。「雨が降っても自分のせい」という言葉が伝えたかったのは、この感覚なのではないか、と。

 

つまり、誰かの責任、自分への言い訳を探している時間が非常にもったいない、ということだ。そんなことに呻吟するリーダーは、色々と失格なのではないか。

 

正直、どんな弁疏をたれたところで、評価は面白いほどの勢いで失われていくものだ。言い訳が逆にその人のリカバリーとして機能することは、ほぼ無いとみていい。

 

だからこそ、話を進めて、次のタスクを片付けた方が絶対に良い。自分のミスも含めて受け入れ、その解決に動く。それを習慣化することで時間が無駄にならずに済む。

 

今日はそのことを強く実感した。「ああ、今は責任の所在を論じている場合じゃない」「理想どおりにいかなかったことに文句を言っている暇はない」と本気で思った

 

そのように思考が変わったこと、それを理解できる地点まで来たことは、自分にとって小さくない成長だったと感じている。

 

これまでの反発とは違う形で、自分の中に納得が生まれたという意味では、ある種の「成功体験」ともいえるかもしれない。

 

そのため、今日はこの気づきを、自分自身への前向きな評価として記しておきたいと思う。以上、よくわからない気づきかもしれないが、今日はこの辺で。

 

 

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