今日は、「僕自身が苛立ちを覚えるものに関する別考察」という、やや堅苦しいタイトルで記事を書いてみようと思う。
1ヶ月くらい前、僕は「自分の中でズレを感じるものに苛立つ」という仮説を立てた。これは、可能性のひとつとして挙げた話だったが、納得感はとても強い。
たとえば、シャワーを浴びている時など、理由もなくイライラしてくることがある。そこに潜むのも、やはりギャップの存在だ。
実際、シャワー中は体を洗う以外に何もできないのだが、その間も容赦なく、頭の中に様々な思考が湧いてくる。
例えば未完了の仕事、上手くいかなかった説明など、そうした思考が浮かぶたび、職場に行って今すぐそれに取り掛からないといけない、という風に僕のメタは思う。
しかし、実際の自分は家でシャワーを浴びている。こんな風に、目の前にある「すべきこと」と「していること」とのギャップこそが、苛立ちを起こすのだ、と。
この構図こそが、僕にとって一番ストレスになる。こうした自己分析によって、苛立ちの原因の7〜8割は説明がつくようになった。
ただ、残りの2割ほどには納得がいっていなかった。この構図が別に見えないのに、イライラする局面は割と存在しているのだ。
ところが最近、その2割にもある種の答えが見えた気がしている。その内容について、忘れてしまう前に、ここへ記していく。
僕のメタ「わかってるから皆まで言うな!!」
結論から言えば、それは「自覚はあるが、まだ言語化されていない課題を他人から指摘されたとき」である。
つまり、潜在意識では認識しているのに、それ自体の言語化が追いついていない。そうした人間的課題を誰かに指摘されると、苛立ちや反発に近いものを感じてしまう。
しかしここは念押ししたいのだが、叱られた子供が親にむくれる感じではなく、僕はあくまで、またダメだった自分を認識して、それに腹立たしさを覚えるのだ。
これをどう説明するかは少し難しいのだが、きっと怒られた事実”ではなく”、それによって「理想通りの結果が出せなかった自分」に対する怒りではないかな、と。
このように、僕にはあらゆる指摘を、自分に対してすぐ矢印を向ける癖がある。これが強みなのか弱点なのかは分からないが、間違いなく僕の思考パターンの特徴だ。
そして最近、似た内容の指摘を何度も言われていることにふと気づいた。今回はたまたま、「僕は何を汲み取れていないのか」という点に思いが至った。
つまり、言語化しきれずにいた部分があることに気づかされたのだ。直さねばならないことはわかっているが、改善策はおろか、正体さえわかっていない、なにか。
そのような曖昧な部分をチクチクと突かれると、確かに感情が逆立つような感覚がある。そこから、ひとつの仮説が浮かんできた。
それは、自分が「弱点だ」と認識していることについて、これまで掘り下げることを避けてきたということだ。実際、自分の弱点をわざわざ直視するのは不愉快である。
しかし、それを避け続けていた結果、未完了があればあるほどイライラするメタが反応し、いつまでも苛立ちが残り続けている。そのことに、昨日ようやく気がついた。
今日は、たまたま時間が取れそうな日だったので、4~5分ほど使ってその辺に丁寧に向き合ってみようと思う。そして、何かが変わるのかを自分なりに観察してみたい。
もし変化があったなら、その結果もまた別の記事として記録に残していこうと思う。では今日はこの辺で。