今日は、「まったく休まない人間が本当の意味で問題になるのはどういう時か」というテーマについて書いておきたい。
昨日は今月2回目の休暇、つまり会社に行かなくてもいい日だった。これ自体、いわば当たり前の話で、さして報告する必要性があるような話には聞こえない。

しかし、ゴールデンウィークなどの長期休暇を除けば、月に2回以上休めたのは本当に久しぶりで、おそらく昨年10月以来ではないかと思う。
休みのたびに「もっとちゃんと休んだ方がいいんだろうな」という気持ちは正直に湧いてくる。充実した時間を過ごせているとは、正直思う。必須だとも感じてはいる。
しかしそれ以上に強く感じるのは、自分がこうして余暇を満喫している暇があるなら、売上や集客につながる行動を一つでも考え、実行すべきではないかという思考である。
もっと言えば、そうした行動をしていないからこそ「お前はまだまだだ」と、どこかメタ的な視点から自分を叱責する声が聞こえてくるような感覚さえある。
だからこそ、休んでいると徐々にイライラしてくる。これが僕の本音である。だから特に今の立場を引き継いで以来、休日自体が滅茶苦茶嫌いなのだ。
・・・この感覚については、過去にも何度か言葉にしたことがあるとは思う。その度にどこか、「いけないとは分かっているけど止められない」ということを吐露した気がする。
そして、いわゆる「ゾンビ型社畜」や「やる気のある無能」からの被害報告をSNSで読むたびに、「この働き方はやはり許容されないな」と頭では理解していたつもりだ。
だが一方で、自分はそういった“厄介な人たち”と同じ種族ではない、という確信もどこかにあるわけで。
ということで今日は、その確信の理由について、以下言い訳としてひたすら書いてみたいと思う。
「かわいそうな私」を引き出すツールにしていたら・・・。
この確信の根拠は非常にシンプルで、「僕には他人の目、いわば他人からのリアクションが一切必要ない」という一点に尽きる。
いわゆるゾンビ型社畜ややる気のある無能とされる人々の共通点は、自分の努力を他人に認めてもらいたいという承認欲求が非常に強いことである。
「こんなに頑張っているのに・・・」「こんなに尽くしているのに、誰も分かってくれない」といった“かわいそうな私”という構図によって、相対的な優位性を得ようとする。
こうした思考こそが、問題視される働き方の正体だと僕は考えている。こういう存在が職場にいると、確かになるほど、”迷惑でしかない”。
その点、僕の動機はそれとは根本的に異なる。僕はそれが必要だと強く思っているからこそ、勝手に出て、働いている。それだけである。
誰かに褒められたいわけでもないし、同情を集めたいわけでもない。そんなキモい動機で仕事がしたいなんて思ったことは、人生で本当に一度もない。
もちろん、他人に迷惑をかけるつもりも一切ない。仮に僕が出社しているからと誰かが出社日数を増やしたり、勤務時間を伸ばしているとあれば、意地でも止める。
よって、この働き方について、僕自身が無駄な悪影響を与えている可能性はさして気にすべきことでもないと思っている。ただしこれはあくまで暫定的なものではあるが。
もし本当に、今後改めて問題が顕在化するようであれば、それはその時に改めて考えればいい。明日できることは明日やればいいんだよ、である。
とはいえ繰り返すが、今の僕は“好きでやっている”わけではなく、必要だからやっているだけであり、そこに善意や意地のようなものは一切含まれていない。
ただ、どうにかして現状を変えたいし、これ以上は落ちぶれたくないという思いの方が強く、それゆえに今の働き方を選んでいるに過ぎない。
状況が整えば、僕だってちゃんと休むつもりである。ただし、それが実現するにはもう少し時間がかかるだろうけれど。
少なくとも現時点では、そんなのは夢物語に近い。それが今の僕の現実である。そしてそれによって、別に誰からの同情も欲してはいない。
ということで、今日はこの辺で。