今日は備忘録的な内容になるが、「本当の意味で気にしないとはどういう状態か」について、自分なりの考察を記しておこうと思う。
僕は昔から「気にしすぎる人間」、いわゆる“気にしい”だと感じてきた。そしてそれは今でも変わらない。
ただ、最近ようやく、その「気にしすぎる」という感覚の正体が、徐々に言語化できつつあるとも感じている。正確に言えば、「何を気にしているのか」がわかってきたのだ。
それは他者の目そのものではなく、結局は「自分の所作」なのである。「自分が変なことをして笑われるのではないか」という不安が、常に背後にある。
この発想の源泉として思い当たるのが、小学校低学年での体験だ。それは水泳の授業で、クロールか何かの実技を練習していた際だと記憶している。
呼吸のために顔を上げることがまだ難しく、水に顔をつけたまま泳いでいたら、気づけば大きく右に逸れて泳いでいた。そしてそれを、周囲から笑い声で知った。
このときの記憶は、はっきりと恥を超えて、恐怖という感情として、強く記憶の奥底と結びついて残ってしまっている。
それ以来、僕は「平均値から外れること」を強く怖れるようになった。そしてそれが、30年近くも治らずに残っている。なかなかに根深い問題である。
だからそのために、「気にしない方法」についてはずっと考えてきたが、やっぱりどうしても、気になるものは気になる。そのジレンマに悩んできたが、最近は少しマシだ。
というのも、僕なりの、本当の意味で「気にしない」ための方法論が、段々と腑に落ちてきたからだ。今日はそれをまとめた感じの記事である。
「気にしない」を目指すこと自体が逆効果だった。
僕はずっと、「気にしない方法」自体を探し続けてきた。ネットで調べたり、他人のアドバイスを受けたりもした。
例えば「目の前のことに集中しよう」とか、「他人は自分のことなど見ていない」といった助言は何度も耳にしたが、どれも実感としては響かなかった。
つまり、こうした“正攻法”の数々は、僕にとってはどれもしっくり来なかったということであり、だからこそオリジナルな方法を考えなければならないという感覚に至った。
その末にようやく気づいたことがある。僕にとっての「気にしない」は、逆に“気にしまくる”ことだった。
僕はおそらくADHDの傾向が強く、「何も考えない」ことがほぼできない。いわゆる「無になる」という状態が、基本的に作れない人間なのだ。
唯一それが可能なのは、自然の中にいるときである。たとえば、木々の葉が揺れ、風が吹き、虫が飛び、鳥の声がする。その一つ一つを、敢えて意識的に知覚する。
そうした”情報量の多い世界”に接すると、僕の脳は“処理不能”になってスパークする。そして結果的に静かになってくる。
つまり、僕にとって「気にしない」とは、「何も気にしないこと」ではなく、「他のことを徹底的に気にしておくこと」なのではないか。辿り着いたのは、こんな発想である。
実際、僕は何もしなければ、デフォルトで「自分の動作」や「他人の視線」を気にするようにプログラムされている。
これを打破するためには、それら以外のものに意識を向け続ける必要がある。こう考えればシンプルな話だったが、気づくのには時間が掛かってしまった。
たとえば、これからポスティングに行こうとしているが、こういうときも「見られたらどうしよう」「不審がられたら嫌だな」と思ってしまう。
そこで、あえて意識を“自然環境”に向けてみた。風の感触、葉の揺れ、鳥の声、足音。そういった“気にしても問題が発生しないもの”に、意図的に気を配る。
これにより、余計な消耗がある程度抑えられるように感じた。もちろん、この方法が万人にとって有効とは限らないし、僕自身もまだ完成度が高いとは言えない。
これからも調整は必要だと感じている。ただ、気にしすぎな人にとって、何らかのヒントになっていれば、嬉しく思う。
ということで、今日はこの辺で。