今日もまた、休日を返上して職場に向かっている。理由はネガティブなものではない。むしろ、かなりポジティブな動機である。
具体的には、ビックリするほどの売上につながる個別指導の依頼が入り、ゴールデンウィーク前半の1~2日を返上しなければ回し切れないという事情があるというだけだ。
大学生講師と手分けしながらコマを実施しているが、この判断は正しかったと確信しているし、多分休んでいたら詰んでいたとも感じる。
この出来事を通して、改めて感じたのは「僕という人間は、本当に“何もしない時間”が耐えられない性質なのだな」ということだ。
空白な時間は、耐えるにはあまりにも辛い。仕事をしている方が何倍もマシなのだ。今日はそれをベースに、謎のエッセイもどきをつらつらと書いていく。
いつから退屈が嫌いになったか。
学生時代は、むしろ“暇な時間”が尊いと思っていた。だが、それはやりたいことが無数にあり、それらを次々と切り替えて取り組むことができたからだと思っている。
つまり、何かに没頭し続けていないと落ち着かないという点において、昔も今も変わっていない。単に、今ではそれが「仕事」という形に変化したに過ぎないのだろう。
ところで、僕が割と仕事に対して必死になっているのは、「より良くしたい」という前向きな理想からではなく、「このままではマズい」という差し迫った動機がある。
これが健全かどうかは分からないが、実際ゴールデンウィーク中ずっと仕事が停止してしまう期間がずっと続くと思うと、正直めちゃくちゃぞっとする。
もちろん1日程度、何もせずに過ごす時間があっても構わない。だが、それが2日、4日と続くと、僕にとってはほとんど拷問に近い日々になると予想する。
つまり僕は、「働きたい」という願望は説明として正確ではなく、単に「空白が生まれることが怖い」のである。それを解消する一番手っ取り早い手段こと、仕事なのだ。
なんなら、空白を減らすため、意図的に休日を減らしたいとすら思っている。ここまで来ると、僕の価値基準が世間とは大きく違うことが明白で、やるせなくも思う。
これは自分を正当化するために書いているのではない。単純に「僕という人間はそういう生き物なのだ」と記しておきたいだけである。
とはいえ、先週は体調不良により、やむなく1日だけ早退した。限界値は割とすぐそこにある気がしているが、そんな踏み絵は勢いよく踏み抜きたいというのが本音だ。
むしろこのままの調子で生きていれば、10年以内に寿命を使い切るのではないかという予感すらある。だが、それはそれで構わないという気持ちも同居している。
それはなぜなのか。こう書くとどこか物語風な響きでしかないのだが、僕は僕の人生を、「バトンをすべて落とすための時間」と捉えているからだ。
以前も書いた気がするが、僕は恋愛や結婚に興味がないどころか、そもそもその感覚が理解できないという、アセクシャル気質を持っている。
子どもについても、あらゆる選択肢を拒絶している。その根底には、「それに至る行為自体を極度に気持ち悪いと感じる」という性嫌悪を持っているから、というのがある。
すなわち僕は、新たな世代をつなぐ才能と能力がことごとく剥奪されて生まれてきたも同然なのだ。ちなみにこれ自体は、人生がシンプルになるのでありがたく思っている。
そして、友人は次々結婚したり、転職して新天地に旅立ったりと、僕とは住む世界を異にするようになった。だが今更、友人関係を構築する気力も興味も意欲もない。
・・・だからこそ、僕にとっての人生のポートフォリオは、ほぼすべてが「仕事」に割かれている。使えるカードは限られているのだ。
他者と分かち合うことではなく、自分が納得できるように“生き切る”こと。それだけを見据えながら、今日もまた仕事に出ているし、それでいいとも納得する。
では今日はこの辺で。