今日は、先日の記事の続きのような内容になるが、「ワークライフバランスなんて人によって違う」という話を書いておこうと思う。
まず正直に言えば、ワークライフバランスという言葉の本来の定義にはあまり興味がない。調べるのも面倒なので、そのあたりは掘り下げていない。

つまりここから先は、別に何にも基づいていない、いわば聞きかじりによるただの偏見ということで、割引いていただけるとありがたし。
さて。僕の感覚で捉える「ワークライフバランス」とは、「休暇と有給はきっちり取れ」「残業はするな」「定時で必ず退勤せよ」といった命令だと思っている。
本来は個人的な価値観で留めておけばいいことを、無理やり拡張し、制度やルールとして一律に求められる働き方を指しているように思うのだ。
もちろんそれ自体が悪いとは思わないし、それを実現できる企業体力のある場所で、かつ全従業員の合意が取れているのであれば、どんどんやればいいと思う。
ただ、誤解を恐れずに言えば、それが全体に対して“義務”として押しつけられる構造には、正直懐疑的である。今日はそんな石を投げられそうな持論を書いてみる。
みんなで一斉に「働かない」という選択の意味とは?
たとえば、僕が今の働き方や状況のまま、それこそ定時退社・完全休日取得を徹底していたら、何が起こるか。想像に難くない。まず間違いなく校舎が潰れる。
それは僕の経営能力不足かもしれないが、そうした状況にある人間が「休むべきだから休む」では、もはや責任放棄に近い。これは正直、”仕方ない”のだ。
そもそも、世の中には休日も定時も無視で働き続けた結果、とんでもないインプットとアウトプットを重ねて、圧倒的な競争優位を築いてきた人もいる。
そういったタイプがこの世界、この経済圏を引っ張っているのもまた事実だ。そういう方が性に合っている人たちに強制的なストップをかけることは、意味があるのかと。
一方で、「仕事は短ければ短いほど良い」「休みは何より大事」と信じて疑わない人たちもいる。たとえば欧州のように、国家単位でその価値観が徹底されている国もある。
しかし、そうした“長時間労働=悪”というスローガンが普遍の正義であるかと言われると、僕はやはり疑問を抱く。それは欧州の話で、日本にそのまま適応できるのか、と。
だからこそ、ワークライフバランスはあくまでも“スローガン”として掲げるものであり、万人の正義として強制することには、それはそれで危うさがあると思っている。
実際、僕にとってのワークライフバランスとは、「8:2」がちょうど良い。仕事が8、プライベートが2。これくらいの比率で日々が回っていれば、精神的にも最も安定する。
逆に、休みが週に2日あり、定時で帰宅できるような状況になったとしても、僕はそこで幸せになれる自信がない。退屈で仕方がなくなり、人生の質が落ちるのが明白だ。
そもそも僕には家庭がないし、将来的にもそれを持とうという気がない。だから「家族のための時間確保」が前提にあるような働き方には、もともと興味がない。
そう考えると、法定通りの休みを“当然”とするような働き方は、僕にとってはむしろ不自由だ。自由とは「選べること」であって、押しつけであるべきではないだろう。
「有給は全取得せよ」「定時は絶対」「休みは神聖なもの」――こうした価値観を“義務”として語るようになると、その枠に収まらない人間が息苦しくなる。
もちろん、ブラック企業やパワハラによって命を絶つような状況が現実にある以上、その反動としてホワイト志向に触れる時期が来ること自体は、歴史的に理解できる。
ただ、それがどこまで、そしてどれほどの歓迎具合を持って受け止められるのかには、当事者としてではなく、どこか外野からの視点を持って、注目している。
基本的に、僕は“活動家”と呼ばれるような人たちが掲げるスローガンなり行動なりに、ある種の違和感を覚えるタイプの人間だ。だからこれも、そうなのかもしれない。
もちろんそれが僕自身の偏見である可能性も改めて認めて念押ししたうえで、今日はこの辺で終わりとする。