最近、休みも返上しなければ回らないほどの仕事量があり、つまり繁忙期で心身ともにヘロヘロ・・という状況になるはずなのだが、不思議な手ごたえが先行している。
なんというか、日常+α程度の負荷に過ぎない。そんな余裕があって、今の状況もどこか俯瞰してみている感じがある。自分事と思わない、というか。
ただ、この日々も、例えば社会人1年目だった頃の自分ならば相当キツいに違いない。きっと「終わったらなんかで発散しないとやってられない」と感じていたはずだ。
しかし、今となってはまったくきついとは感じない。あの頃と比べれば、これは単なるちょっとしたイレギュラー。
部活で例えるなら、「顧問が突然やる気を出して、少しだけ練習量が増えた日」程度の感覚でしかない。この程度で消耗するほど、僕はもうヤワでも純粋でもないのだ。
こういう感覚を抱くようになった最たるきっかけは何だろうか。ふと思ったが、その答えは簡単だった。単に過去、今の数倍きつい日々を経験しているからだ。
今日は労働観・労働の基準がバグると人間どうなるか、そんなことを紹介する記事を書いてみる。
あの頃無茶したから、今は無茶している感覚がない。
“本気でしんどい日々”を経験しているかどうかで、現在の疲労感の捉え方は大きく変わる。これは真理だと僕は感じている。
こういう感覚を持つに至った背景として最たる記憶は、自分の社会人1年目の経験がある。あの頃は、今では信じられないが、「1日15時間労働」が続いた時期があった。
日が昇る前に出社し、日没後に退勤する。お日様はこんなに明るいのかと、休憩中にヤバい感動を覚えたときさえある。
そしてその頃に比べれば、今の労働時間は3分の2以下。だからこそ、今の働き方にしんどさを感じることは、ほとんどない。むしろ身体的にはラクな部類である。
藤田晋さんも著書で「ハードワークは先行投資」と言っていたが、僕もそう思う。一度その“基準”をつくってしまえば、それ以降のすべてが“比較的マシ”になるためだ。
小さな困難や不調に対して、いちいち感情が振り回されなくなるのだ。尺度なんて、結局は「以前の自分と比べてどうか」でしかない。
そして一発メガトンパンチな時期を食らっていると、「あの頃に比べれば大したことな」ことばかり。自分の芯や軸として、これ以上頼もしいものもない気がしている。
だから、たとえ1日2〜3時間労働時間が増えたとしても、精神的には全然耐えられると思っている。実際そうしてみた時期もあるが、やはり楽勝であった。
自分がどこまで無茶をしても壊れないか、その“許容範囲”を把握していればこそ、本当にヤバいラインのキワッキワにまで人は行くことができるように感じてもいる。
そういう「切り札」を持っている感覚が、今の自分を支えている部分も否定できない。ただし、これは、「良い子は真似しないでね」という話だとも感じている。
決して万人に当てはまるものではない。あくまで、僕の個人的な実感にすぎない。だからこそ我流で訳のわからないハードワークはしない方が良いと、僕はむしろ止める。
とはいえ、そういった“本気のハードさ”を知らないまま、ずっとイージーな日々を過ごしていると、それはそれで弊害が大きいような疑念も抱いている。
放置すれば、人間の体力や精神力の“基準値”そのものがどんどん下がっていくのではないか─そんな懸念も抱いている。「近頃の若いやつは・・」の正体かもしれない。
もちろん、これは「ハードであることを礼賛する」という話ではない。無駄に黒いだけの労働観ってのは僕もクソだと思う。真のヒーローは定時に仕事を終えて帰るのだ。
ただ、時おり身心にパンチを食らわせるような“無茶”を経験することが、長い目で見るとむしろ楽になることもある、という実感がある。
実際、最近の僕は週休1日あるいは0.5日といったスケジュールで動いているが、それがもはや当たり前になっていて、特段しんどさを感じることはない。
逆に「週に2日は絶対休まないとやってられない」「定時で帰らないと体がもたない」と言う人を見ると、「どれだけ濃密に仕事してるんだ?」という疑問が湧いてしまう。
あるいは単純に「体力がなさすぎるんじゃないか?」と感じてしまうこともある。これ自身、僕が老害に突っ込みつつある証の気がして、公言がはばかられるが・・。
ということで、今日はこの辺で。