精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

「一つの感情に浸れる時間は、この上なく贅沢である」

今日は、「一つの感情に浸れる時間はこの上なく贅沢である」という話をしておこうと思う。これは最近ではなく、1年くらい前から思うようになった話だ。

 

なんだかんだで僕は、支店長のような立場にあるのだが、中小企業ゆえ、裏方でマネジメントに専念などできず、現場での判断・対処を任されることも多い。

 

そのため、良い報告も悪い報告も、僕の都合やメンタル状態とは無関係に飛び込んでくる。そして当然だが、都度対応するのは僕一人である。

 

だからこそ、嬉しい報告の直後に辛い報告があり、さらにそのすぐ後にまた嬉しい報告が入る――そんな状況が日常茶飯事だ。

 

そうなると、一つの感情をじっくり味わう時間というものがまったく取れなくなる。このことには、1年ほど前からうすうす気づいていた。

 

これが不健全なのか、それともむしろ健全なのか、正直なところ自分でも分からなくなってきていた。そのこと自体に少し悩むというか、引っかかる時期もあった。

 

ただ、最近の僕の結論としては、「一つの感情に浸れるというのは、実は贅沢なことなのではないか」という考えに落ち着きつつある

 

今日はそんなお話をば。

 

 

感情を味わい尽くせるほど暇ではない。

 

一つの感情に没頭できること。それを味わえること。それはどちらかといえば「特別な状態」であって、常に手に入るものではない

 

むしろ稀であるからこそ、方々の本に書かれるように、かけがえのない価値があると解釈できるようになったのだ。

 

たとえば、何か悲しいことがあったとき、徹底的にそれと向き合い、「何を失ったのか」「それはどんな意味を持っていたのか」などと深掘りすることには意味があると思う。

 

しかし、それをするには明らかに“まとまった時間”が必要である。そしてその時間は、特に仕事中にはまず確保できない。そしてタイミングを過ぎればどうでもよくなる

 

ゆえに、ある意味イベントから時間を経た今の僕にとっては、「自分は何を失ったのか」といった問いは、正直なところ“どうでもいい”とすら感じてしまう。

 

実際、昨日もそんなことがあった。あるご家庭から「メンタルがきついそうで、一旦やめます」という連絡を受けた5分後に、「入塾希望です」と電話が入ってきたのだ。

 

もしこれら一つひとつにきちんと感情を割いていたら、精神が保たない。「悲しかったあとに嬉しかった」ことに対して、罪悪感も歓喜も、抱いている暇すらない。

 

そうした事情もあって、僕はその都度その都度、感情を一旦切り離し、「今この状況において、どの反応が最適か」を頭で選び取るようになってしまっている

 

この判断の仕方について、現時点では特に悪いこととは思っていない。むしろ、感情を引きずらないという意味では、収まりが良いとすら感じている。

 

感情の鈍化は人間的な退化ではなく、むしろ環境に順応した結果なのではないか。僕としては、そう思えてならない。それが良いか悪いか、判断するのさえ億劫だ。

 

さて。もし、僕と同じように「感情を一つ一つ味わう時間が取れない」と悩んでいる内向型の人がいたとしたら、むしろ逆の視点を持ってもいいのではないかと思う。

 

つまり、「感情にじっくり浸れる時間がある方が贅沢である」という前提に、意識を合わせるということである。

 

そう捉えるだけでも、自分への理解の仕方は少し変わるはずだ。少なくとも僕は、一つの感情に囚われることが減った自分を、大げさだが誇りに思ってさえもいる。

 

ということで、今日はこの辺で。

 

 

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