著者たちは一見へそ曲がりに誤解される気がする。なぜなら、世間が言うことは大体間違っていて、別の観点が正しいという主張が並ぶからだ。
僕も最初はそう思っていた。逆張りがとても上手なだけで、悪ガキと形容されることから、迎合自体が嫌いなだけなのではないか、と。
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しかし今は、そもそも大衆が感情的に結束して発したコメントは十中八九間違えている、ということではないかと思うようになっている。
藤沢数希氏も、「愚かなポピュリズム、ここに極まれり」という印象的なフレーズを残していたが、それは市井の声を丸呑みにした結果の政策に対してのものなのだ。
疑うことから始めて、真理は見えるようになる。そんなことを教えてくれる名著。今週も張り切って再読していこう。
- 5月12日(月) 人生波なり。
- 5月13日(火) 頑張ったらノーボーナス。
- 5月14日(水) 実験を許容するには世界はあまりにも広すぎないか?
- 5月15日(木) 推し活的政治。
- 5月16日(金) 給与至上主義。
- 5月17日(土) 政治家とは、〇〇のプロ。
- 5月18日(日) What do names tell us?
5月12日(月) 人生波なり。

いつも同じ水準で給与を払う。これは当たり前に思えて、実はものすごく非合理的でもある。
例えば徴兵の話も、有事の際の給料は思い切り引き上げる代わりに、平和な際は最低限のそれに留めておけば解決、らしい。
それは仕事も同じだと思った。繁忙期やチャンスモードにおいて、休日返上・組織疲弊を覚悟して取りきることにはメリットがある。
しかし平時も無駄に忙しくする利点は無いに等しい。実際合理主義者は、稼げるときに稼ぐが、稼げないときはそもそも働かないそうだ。
そこまでシビアに自分の労働を見れていたかどうか。僕は正直、否である。
5月13日(火) 頑張ったらノーボーナス。

保険料は恵まれたシステムと思うと同時に、設計上、健康な人ほどトクをしないものになっているとふと気付いた。
例えば医療費負担が一部のみとか、税の記載時に恩恵を受けたりとか、病院に行った人ほどこの制度のメリットを得られるイメージだ。
では1年間無病息災の人はどうか?それに関しては特になにもない、というのが実際のところではなかろうか。
社会保障費の再設計の鍵はこにあるという主張、どう展開していくか楽しみである。
5月14日(水) 実験を許容するには世界はあまりにも広すぎないか?

筆者の閃いた解決策。それは簡単に言えば、給付金制度を使うのだ。その額は、医療をどれほど利用したかで上下する、と。
1年間無病息災であれば、満額で支給。医者にかかればかかるほど、そこから切り崩す形で保障が行われる。
それによって働くインセンティブにより、トータルでの歳出は減る、らしい……。ただしこれは、ラボの中の実験に過ぎない。
現代の制度をドラスティックに変える手前、すぐすぐの実現は難しいだろうが、筆者調べでは割と好意的に市井は受け止めているそうだ。
5月15日(木) 推し活的政治。

投票の平等性を担保すると、それは一見して不平等なシステムになる。そんな話があった。
推し活という文化があるが、あれを選挙に持ち込むとどうなるか。人気がある人が優位に立ち、つまり当選しやすくなる。
そのためには握手券よろしく、個人が複数票を持てるようにすればいい。ただしその額はどんどん上がるようにする、と。
これ自体は画期的だが、旧態依然とした勢力からは猛反発を受けること間違いなしの話だろう。
また、組織力=得票数になるため、例えばオウムが全盛期だった頃にこれをしていたらと思うと、なかなか怖い話がある。
5月16日(金) 給与至上主義。

給与の高さは、有能な人材を引き寄せる魅力となりうるか。これはなかなかの難題だ。
よくシンガポール大統領の高給が引き合いに出され、日本もそうすべきという声が上がるのを聞く。
ただ僕は、日本ほどお金持ちや成功者への嫉妬が蔓延した国民性においては、それは不可能だと感じている。逆に政治が停滞するのではないか。
感情を逆撫でしながら逆風の中で制度を運営するより、例えばAIをフル活用するなどして仕事を軽くする方が良い気もする。
もっと足を使う。もっと建設的な議論をする。それに集中させる。高給より、その本質的なところが大切なのではと、ふと思った。
5月17日(土) 政治家とは、〇〇のプロ。

一流の政治家とはなにか。僕の知人にはあまりいない人達だが、数少ない例から帰納すると、ある共通点が見える。
それはファンづくりのうまさだ。相手のことを尊重し、調べられることは調べたうえで、自ら足を運んで対話する。
その人の過去の発言も記憶して、それを引用して話す。接していてこのうえなく満たされる感じ。
僕は人心掌握とか人望術とかにおいて、これらはきな臭い名前のせいでどこか胡散臭さがある気がしてある。
本当の意味で味方を増やし、打算のない支持基盤を作る方法は、すごく科学的である。
今日読んだ章を振り返り、そう思った。
5月18日(日) What do names tell us?

いつの間にかDQNネームからキラキラネームに呼称が変わったが、名前は親の知性を反映するという失礼な論調がある。
とはいえその線引きは極めて曖昧かつ主観的であり、普通の名前の犯罪者も、キラキラ寄りの秀才も、僕はどちらも知っている。
ただし、これは英語圏の話なのだが、「この類いの名前の子は、親の学歴低め」みたいな調査があったそうだ。
それは、「そう読むことがない漢字を無理矢理当て字にして用いる」というヤツだ。存在自体が眉唾だが、「光宙(ぴかちゅう)」とかがそれに当たる。
僕は僕の子供を持つ気はないので蚊帳の外の議論だが、本当に子供のことを想うとは何かを問う、難問だと感じている。
では今日はこの辺で。