精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

「思い込み」を通せば、世界は必ずその色になる。

今日は、「思い込み」というものがどこまで強力なのか、そしてそれがどのように僕自身に影響しているのか、そんなことについて考えてみたい。

 

例えば”思い込み”をポジティブに解釈したものとして、「引き寄せの法則」や「思えば叶う」といった言葉があるが、そこには確かに美しい響きがあるといえる。

 

ただし、そこにはどうしてもスピリチュアル、あるいはオカルト的な匂いを感じてしまうのもまた事実だ。

 

とはいえ、「この世界で起きている出来事の多くは、思い込みやジンクスのフィルターを通して“そう解釈している”だけではないか」と感じることが、僕にはときどきある

 

以下、それを起点として、つらつらと書いてみる。

 

 

認識が創る世界。

 

たとえば、今現在、外は雨模様だ。こうした状況において、僕の中には「今日は何か悪いことが起きるかもしれない」という感情が自然と湧いてくる

 

これは、明確な原体験がある。高校2年生の梅雨時期のことだ。当時、クラスの空気が壊滅的に悪く、学校に行くのが本気でしんどいと思える時期があった。

 

そのとき何が起きていたかというと、「学級崩壊」だ。公立高校入試を経て入学してきたはずなのに、秩序を完全破壊する奴らがいるということに正直絶望した。

 

主犯はいわゆるギャル系の女子グループだったのだが、クラス仲も最悪で、学習もままならず、多くの生徒の意欲も集中力も失われ、本当にクソみたいな日々だった。

 

その時期は、ちょうど梅雨と重なっていた。つまり、「嫌なことばかりが起きていた期間=雨が降っていた期間」という条件が揃っていたのだ。

 

その結果として、僕の中には「雨が降ると嫌なことが起きる」という連想が定着した。以降、10年以上が経過しても、雨が降ると自然と身構えてしまうようになっている

 

実際、雨が降った日に限って、大なり小なり面倒ごとが1つか2つは必ず起きているという体感があり、「今日もどうせそうだろう」と感じてしまう自分がいる。

 

もちろん、厳密にいえば「不幸な出来事が起きた日すべてが雨だった」というわけではない。晴れた日に不幸が起きたことだってたくさんある。

 

だが、「雨が降っていた日には不幸が起きる」という印象は、僕の中ではほとんど“法則”のようにこびりついている。ただし理性では、このバグには気づいている。

 

「雨が降っている」という前提から入ってしまうがゆえに、本来なら意識にも上らないような小さな不都合すら、「今日も嫌なことが起きた」と解釈してしまっているだけだ。

 

つまり、「悪いことが起きるに違いない」という先入観が、目にしている現実の中から、“悪いことらしき何か”を探してくるのだ。

 

これはいわゆる認知の歪みと言える状態であり、誰にでも起こり得る現象だと思う。むしろ雨の日に不幸なことが起こると、「やっぱりね」とどこか安心感さえ覚えるのだ。

 

こんな風に、思い込みの力とは、良い方向にも悪い方向にも等しく強く働くらしい。そして僕の場合、「ポジティブな引き寄せ」にはあまり効果を感じないタイプだ。

 

「絶対にできる」と前向きに思い込むよりも、「これをしなければ、絶対に自分のなりたくない側に堕ちる」と考えた方が、行動力が湧く。

 

いわば“負の動機付け”によって動けるタイプなのである。実際、これまでの頑張りぬいてきた記憶を遡ると、いずれも起点はそこにあったのを確認している。

 

ただし、それに完全に呑まれてしまうのではなく、思い込みというフィルターを通して世界を見ている自分を、意識的に俯瞰することは非常に重要だ。

 

自分は今、どんな色眼鏡をかけて物事を見ているのか。それをふとした違和感として察知できたとき、そこから内省のきっかけが生まれるかもしれない。

 

そういった感覚を今後も大事にしていきたいと、改めて思っている。ということで、今日はこの辺で。

 

 

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