精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

「しっかり考える」とは、どういうことか?

今日は、「しっかり考える」ということの本質について、自分なりに思うことや感じることを、整理しておこうと思う。

 

尚、今回は誰かに向けた苦言というより、自分自身に対する“備忘録”──つまり反省の言葉として記録しておきたい。

 

ちょうど今は定期テストの結果が返ってくるタイミングであり、もちろん全体としては成果が出ている教科や生徒が多かった印象だ。


しかし一方で、40点台、下手をすれば30点台後半という点数の答案にもいくつか出会うこととなった。この水準の成績を目にすると、僕は正直、かなり戸惑ってしまう。


というのも、自分自身がそのスコア帯を取った経験がほとんどなく、いわば自分の中に具体的体験が存在しない、“未知の世界”だからだ。

 

無理やり思い出すなら、大学受験でセンター試験の数学に手をつけ始めた頃などが近いが、それでも中学・高校の定期テストでそのレベルの点数を取った記憶は流石にない

 

つまり、僕にはその領域の生徒たちが「今どんな状態にあり」「どこまでを一つの成果ラインとして目指すべきか」という具体的な見立てが持てていない。

 

故に、これは僕にとって、明らかな弱点であると自覚している。ならばどうするか?その生徒を憑依させて、他人視点で徹底的に考えるか?

 

大体はそういう発想に至ることだと思うが、これこそこの上ない地雷的な考えではないかと僕は感じている。以下そんな話を、自戒メインで書いていこう。

 

 

「自分の頭で考える」ことの”危うさ”。



 

よくある指導論として、「しっかり分析して、しっかり検証して」といった言葉があるが、これは”大体そうだが、そうとも限らない”くらい割引いた方が良いだろう。

 

特に、今僕が相対しているフェーズにおいては、原因の対策と分析を、自分の頭の中の材料や視点だけでやってはいけないと思っている。

 

なぜなら、自分の中に「当事者としての具体的な体験」が存在しないからだ。この状態でいくら思索を深めても、全く見当違いな方向へばかり深まるだけだろう。

 

経験のある分野であれば、自分の頭の中だけで反省と検証を回すことはある程度可能だが、未体験の領域においては、それはむしろ“ズレた仮説”の温床になる。

 

だからこそ、この場面でまず行うべきは「事例の収集」である。つまり、しっかり考えるとは、「まずインプットすることから始めるべき」という意味でもあると思うのだ。

 

これはスポーツに置き換えても全く同じだ。たとえば、野球の試合に出た選手が「ヒットを打てなかった」とする。


その原因が「フォームそのものが崩れているから」という段階なのか、それとも「技術はあるが、球種の読みや対応力が甘いから」なのかによって、打つべき手は異なる。

 

つまり、「熟達度」に応じて、次に取るべき行動はもちろん、コーチ側の指示の出し方も明確に変わってくるということだ。

 

そして今、僕の目の前にいる「30〜40点台の生徒」が、そもそもどの熟達度にいるのかが、先述の通りの理由で、僕自身の経験だけでは冷静な言語化が難しい。


だからこそ、同様のケースをきちんと調べ、事例を集め、そこから次の一手を設計しないといけないと強く思っている

 

なお、今回該当する生徒たちは、いわゆる「学習障害」や「著しく特異な傾向がある」といったタイプ”ではない”。受け答えも普通で、表面上の言動に特別な違和感はない。

 

だからこそ、誤解を承知でいうなら”厄介”だとも言える。つまり、「わかりやすい異常」ではなく、「わかりにくい躓き」であるからこそ、慎重な観察が求められるのだ。

 

ゆえに当面は、少し情報インプットを多めにして、できるだけ具体的な類似事例を集めながら、僕自身の仮説の制度を高めていきたい。


そのうえで、「頭を使って考える」という本来のフェーズに、ようやく進んでいけるのだと考えている。ということで、今日はこの辺で。

 

 

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