精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

僕の天敵「ゆとり」という言葉を、どう再定義するか。

突然なんだという話だが、今の自分にとって最大の課題は「ゆとり」という言葉のリフレーミングではないかと感じている。

 

以前から口にしていることではあるが、僕は正直ワークライフバランス」という言葉に、あまりいい印象を持っていない

 

たとえば「家族との時間を大切にしたい」「定時で帰ってプライベートを充実させたい」といった価値観は、個人の自由だと思うし、否定する気もない。

 

ただ、それを「万人にとっての理想」として押しつけるような風潮には、どうしても違和感がある。具体例は挙げないが、過激な思想・価値観に同じと思ってさえいる。

 

とはいえ僕自身の感覚をより正確に言葉で言うならば、それ以上に強く感じているのは「退屈な時間が本当に嫌い」という主観的・個人的な嫌悪感だ。

 

こういう本能なり潜在意識なりに根差す抵抗のせいで、僕は「空き時間=悪」という風に、認識そのものを捻じ曲げている可能性がある。それを最近危惧しているのだ。

 

今日はそんなワーカホリックな話をしたためていく。

 

 

いつのまにか嫌いになった「ゆとり」や「退屈」。

 

なぜ退屈が嫌なのかと問われれば、それは「何も生み出していない」時間だからだ。ただ無為に過ごすだけの時間には生産性も創造性もなく、僕には非常に耐えがたい。

 

30代に入ってからは特に、友人関係も徐々に変化し、会う人も減ってきた。かつての後輩たちとも疎遠になり、空いた時間をどう使えばいいのか、困る場面が増えた。

 

その結果、「時間の投資先がない」ことが、僕の中での大きなネックとなっている。時間はお金と違って貯められない。使わなかったら消えていくだけなのだ。

 

だからこそ、今のような「デフォで週6勤務かつ、二週に1回程度の空き時間がある」という働き方が、むしろちょうどよく感じるのだ。


皆が渇望する二連休は、必要と思ったことがほとんどない。それはつまり、退屈で無為な時間が増えるだけだからだ。我ながら病的なことを言っているとは自覚している。

 

・・・このような感覚の持ち主に対して、「休むことにも意味がある」とか「仕事以外に目を向けよう」といったメッセージが響かないのは、客観的にも当然だと思える。

 

加えて、働き方の制度設計自体にも、少しズレを感じることがある。ここから先は、僕がもし管理職として一つ上に行けたなら、是正したいところでもある。


現在、僕が属する組織には、月曜〜金曜勤務の人と、火曜〜土曜勤務の人が混在しており、僕は後者のシフトに当たっている。

 

しかし、たとえ月曜が休みだったとしても、顧客からの連絡や業務の飛び火は普通に発生する


現場的にはその都度対応せざるを得ない以上、休日でもスイッチが完全には切れない。そんな中途半端な「休み」には、もはや意味を見いだせなくなっている

 

つまり、僕が「ゆとりの時間」を嫌っているのは、決して精神論ではなく、構造的・実務的な理由もあるということだ。

 

実際、最近ChatGPTを使って「ソクラテス式問答」をしてみたとき、自分がなぜ休みを取らないのか、その理由が整理されていった

 

一言で言えば、「仕事以外のチャンネルが極端に少ない」からだ。ポートフォリオ的に考えれば、今の自分は仕事にほとんどすべての時間とエネルギーを投じている。


かといって、それ以外に何か夢中になれる活動が見つかっていないのが現実であり、だったらもう仕事をする方がマシ、という思考になる。

 

もちろん、「ワーカホリック」と呼ばれるのは自覚しているし、実際に売上を増やしたい、成績を伸ばしたい、もっと良い指導法を見つけたい、という思いも強くある。

 

加えて、「この状態で遊んでいていいのか?」という心理的な抵抗感も、まだ消えていない。そういった複数の要因が重なり、僕は休みを「取らない」選択をしている。


ただし、「必要なときには普通に取る」という感覚もあるので、そこに無理をしている自覚はあまりない。周囲が言うほど、僕は自分の働き方に危機感を持っていないのだ。

 

一方で、健全ではないと感じる部分があるのも事実だ。実際、僕は「空き時間」というものに、どこか心の根っこで嫌悪感を抱いている。

 

そろそろそれを再定義する必要があるのではないかという思いが、ここにきて芽生えている。実はこのテーマについては、真面目に腰を据えて考えたことがなかった。


だからこそ、そろそろ1回向き合ってみる必要があると感じている。ビジネス書を読んでも、30代の中盤辺りでここに向き合う人は結構多いのも遠因だ。

 

2025年においては、業績の回復ももちろん重要な課題だが、それと並行して「プライベートの時間が希薄で、周囲に要らぬ心配をされる」という現象を避けていきたい

 

せめて「空き時間をどう過ごすか」に対する、凝り固まった認識をやわらげ、もう少し柔軟な視点を持てるようになっていたい。

 

ここまで考えたときにふと思い出したは、高校の現代文か何かの教科書に書いてあった、以下の雰囲気のある一節だ。

 

哲学とは、頭の中でカチカチに固まった土地に鍬を入れて、土をほぐすような作業である。それによって初めて、新しい知恵が芽を出す準備が整う。

 

今の僕に必要なのも、そういった「耕す思考」かもしれない。この違和感を放置せず、丁寧に向き合っていくことで、新しい何かが見えてくることを期待している。

 

ということで、今日はこの辺で。

 

 

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