今日は、「本来日常生活こそ、修行の場だよね」という感覚を久々に思い出したので、少し反省も込めて書き残しておこうと思う。
何度も擦ったネタなのだが、僕は空いた時間があまり好きじゃない。その理由は、放っておくと脳みそが勝手に暴走してしまうからだ。

具体的には、今更どうしようもない過去の黒歴史を思い出したり、遠い未来のタスクを勝手に想像して憂鬱になったり、まだ起きてもいない悲劇の妄想まで始めたりする。
そういった思考がどんどん湧いてきて、文字通り頭がうるさくなる。結果として、仕事をしているほうが無駄な思考が湧かない分疲れない・・・という変な状態になる。
この脳の特性を自覚してから、僕は“空白の時間”というものが苦手になり続けている。だから堀江貴文氏の考え方がすごく好きなのだが、体力がそれに間に合わない。
時間は全て何かで埋めたい。しかし体力が持たない。かといって空き時間を生み出せば、ネガティブ思考はその隙を確実に逃さず、ぬたりと認知の段階に現れてくる。
どう頑張っても考えても詰んでいる状態。僕はいわば、十手詰めの入り口にいるのではないか。考えても考えても、実は無駄なのではないか。そう諦めたい気持ちもある。
・・・・・ただ、実はその状況を打破するヒントのようなものに、実は数年前の自分が”気づいていて”、しかも記事として書いていたことを思い出した。
きっかけは、何となく過去の投稿を読み返していた時だ。自分でも驚いたが、当時の僕は、今以上に遥かに高い解像度で、現状のバグの本質を掴んでいたとさえ思う。
今日は過去記事のエッセンスを今の僕が抽出して凝縮するという謎の記事を、以下つらつらとしたためていく所存である。
日日是修行。
過去の僕が辿り着き、今の今まで忘れていたこと。それこそタイトルに書いた、「日常生活こそ、修行の時間として使える」という考え方だ。
少し過去のことを書いてみる。僕は一時期、毎日家に帰ってから20分間の瞑想をしていたことがある。その頃は確かに、一日を通じて精神的に落ち着いていたように思う。
ただ、その直後に繁忙期が来てしまったのもあり、例えば瞑想中に寝落ちすることが増えてしまった。そういうのもあって、いつの間にか、やらなくなっていた。
この際は、家で、自然音を流しながら、瞑想に適した環境を自分で用意し、その状況で取り組んでいた。確かに、スムーズに集中に入れるといった恩恵はあっただろう。
ただ、冷静に考えると、理想から遠いくらいの状況の方が、むしろ修行としての負荷は強く、経験値としての質が良いのではないか、とも感じるのだ。
最近よくショート動画で目にする、武術を解説する動画でも、「ランダムに動くもの、変化するものに対応する練習が大切」というヒントに繋がりを覚える。
夜に家でぼーっとしている時は、頭が疲れているのもあり、雑念はさほど湧いてこない。そうなると、確かに瞑想は楽だが、同時に負荷が不足している感覚もある。
筋トレで言えば、ダンベルが軽すぎるような状態だ。だからこそ、思考がごちゃつくような昼間の時間こそ、本当は鍛錬に向いている。そのことを、昔の僕は分かっていた。
その際意識的に呼吸をゆっくりにしてみるとか、頭に湧いてきた思考をじっと観察するとか、そんな時間の使い方を、自分にとっての修行と解釈できていたはずなのだ。
今の僕は、それらの気づきをすべて忘れていた。空いた時間をすべて仕事で埋め、何か“している風”の状態をつくっていた。そしてそれに満足さえしていた。
確かに、時間は潰せていたかもしれない。でも、それによって鍛えられていたわけではない。これは、時間の使い方を活かしきれていなかったのと同然だ。
では、どうするか。僕の中での暫定的な目標は、空白の時間に対して無理に“意味”をつけないことだ。水槽を泳ぐ魚の様子に、別に何の意味もつけないのと似ている。
「何かしなければ」「生産的でなければ」という焦りが、かえってしんどさを生むのなら、そういう意味付けを止めればいい。そのためには、それに気づく必要がある。
空白の時間はただ空いているだけ。それ以上でも以下でもない。そこに意味を無理につける必要はない。
“観察する”という状態は、僕にとっては「生き物をぼーっと眺めている感覚」に近い。それを、自分の頭の中に湧いてくる思考に対しても向けられるようになりたい。
そのためには、静かな時間ではなく、むしろごちゃつく時間にこそ、その認識に向き合う練習が必要なのだと思う。単純に経験値の質が違うからだ。
これまで僕は、そういった鍛錬の機会をずいぶん逃してきた。そのことを今さらながら考えさせられた。
でも、気づけたならそれでいい。思い出せたのなら、またやり直せばいい。
空白の時間に、無意味なネガティブラベルを貼らないよう、これからは少しずつ心がけていきたい。
ということで、今日はこの辺で。