今日はモチベーションに関する話を少し書いてみようと思う。ただしこれは決して普遍的な話ではなく、あくまで僕にとっては割と機能するというだけのものだ。
以前にも触れたが、僕には「こういう人になりたい」「こういう未来を歩みたい」といった、いわゆる“なりたい自分像”があまりない。
そういった理想像に対して、一時的に「頑張ろう!」と思っても、ほぼ確実に心が折れてしまう。例えば彼女を作ろうとした際もそうで、公務員を志したときもそうだった。
その理由は明白で、自分の本心から湧き出た動機ではなく、社会的に押し付けられた成功像を目標にしていたからだ。
人生を振り返ると、いわゆる“社会的な成功モデル”が、自分の幸せと噛み合ったことは人生を通じてほとんどない。大学に進学したことくらいだろうか。
実際「新卒でちゃんと就職しなければならない」とか、「30を過ぎたら身を固めるべき」などの一般的な価値観には、追えば追うほど、僕はむしろ不幸を感じてきた。
そんな僕の場合は、「こうなりたい」という理想ではなく、「絶対にこうはなりたくない」というモデルから遠ざかる形の目標の方が、よほど強いモチベーションになる。
これは以前にも書いたので深入りはしない。ただ、僕のモチベーションにはもう一つ、強く作用している要素がある。それが“好奇心”だ。
「本当にそうなるのか?」という疑問を確かめたいという欲が、長期的な努力を支えてくれる。そしてそのエネルギーは持続的で、しかも強力だ。
太陽や海、マグマなど、再生可能エネルギー自体を生み出している大元のようなイメージである。今日はそんなモチベーションの話を、つらつらと書いてみよう。
本当にそうか、はたまたどうなるか、「確認したい!!!!!!」
僕が今注目しているのは「現状維持を地道に続けると、中高のときに形成されたモテカーストが勝手に変わっていく」という現象だ。
これの元ネタはひろゆき氏の発言なのだが、「ハゲず、太らず、最低限のおしゃれをして定職に就いていれば、相対的にモテ度数が上がる」という主張だった。
実際、中学・高校・大学時代にモテていた人は、生まれ持ったギフトゆえに異性との縁にはまるで困らない。
ゆえに多くの選択肢の中から、“とっとと相手を見つけて結婚する”というルートを取る人も多い。すると上位層の中から、“恋愛・結婚市場”より退場する人たちが出てくる。
すると、次点のクラス2位とか3位だったイケメンや美人層が自動的に繰り上がるはずだが、彼ら彼女らの一部は、見た目を高める努力を知らないまま大人になるらしい。
何もしなくてもちやほやされたのなら、確かに必要性を覚える方が珍しい。結果、太ったり、肌が荒れたり、禿げたりと、加齢で見た目が劣化するケースもあるそうだ。
ところで、彦摩呂さんというグルメリポーターがいるが、彼の若い頃はめちゃくちゃハンサムだ。今もその面影はあるが、イケメンとして扱われているかといえば微妙だ。
その考え方を知って以来、僕は自分自身でその現象を確かめてみたいと、なぜか強く思った。以来コツコツと、最低限の筋トレやスキンケアを続けている。
もちろん、シンプルに不潔だとかダサいとか思われたくない、という動機もある。ただ、本当に周囲の“元イケメン”たちが落ちてくるのかを観察してみたくもあるのだ。
今年で僕は34歳なのだが、不思議なことにかつてのイケメンが劇的に劣化してきた例はあまり見ない。一方で、“順位が上がった元イケてない組”の変化は、多々見てきた。
僕と似たようなあか抜けない友人が、定職に就き、少しずつおしゃれを覚え、貯金をし、年齢を重ねて安心感が出てきたことで、魅力が醸成されたのだろうか。
最近では、「一回り年の違う20代女性から好意を伝えられ、普通に付き合ってる」と聞いて目玉が飛び出そうになったこともある。
要するに、彼もまた“現状維持”という地味な努力を続けた結果、相対的な順位が上がっていき、「素敵」と思ってくれる人が現れるところまで来た、ということだろう。
こういった事例を見ると、僕は本当に「面白いな」と感じる。ただし、僕がそうなりたいかと言えば話は別で、正直言ってかなり嫌だ。あくまで観察する側で在りたいのだ。
たとえば僕に異性としての魅力を感じる人がいたとしたら、「うわ、この人マジで見る目ねぇな・・・」とガチで幻滅する。これは10代後半からそう思っているのだが。
そんなこじれた自意識を持っているが、それでも観察者としてこの現象をじーっと見てみたいという興味は強い。30代後半、40代前半、その辺りまでは続けたい。
そのためのコストが、日々の筋トレやスキンケア程度で済むのであれば、僕は喜んで払う。それくらい、僕の中では好奇心というものが強く作用している。
とはいえ、この“好奇心の行き先”を見つけるには、ある種の運も必要だ。ただ、僕にはそれを探すためのひとつの基準がある。
これが少し難しいのだが、日常の中で「なぜかやけに心に残った場面」や「印象に残った言葉」があったとき、それを意識的にピックアップしておく。
そして、なぜそれが引っかかったのかを、ソクラテス式問答法のように、4~5回ほど自問していく。なんで、どうして、そういった簡単な問いでも構わない。
それを重ねると、いくつものフィルターを経て凝縮されたコーヒーが淹れられるように、大抵の場合は濃ゆいひとつの仮説に行き着く。
その仮説が魅力的なものであれば、それを確かめたいという健全な欲求が生まれ、自然と行動や観察が促される。こうして行動に移したとき、僕は滅多に外さない。
正直、これが行き過ぎて、自分は性格が悪いなと思うときもある。ただ、子どもの“無邪気さ”は”ときに残酷”であるものだ。
意地悪でやっているのか、純粋な観察欲なのかは、境界があいまいだが、僕はこの好奇心には、あまり邪気がないと思うようにしている。
それで誰かに迷惑をかけていたら謝ろうとは思う。ということで、今日はこの辺で。