精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

僕の中に居る「やたら僕に厳しい分人」を紐解く。

唐突だが、僕が子どもの頃、『遊戯王』という漫画が流行っていた。今でもカードゲームに名前は残っているが、元々は漫画作品であり、純粋にその物語が好きだった。

 

当時、僕はほぼ全巻を揃えて読んでいたのだが、その中で度々登場するとりわけ重要なキーワードに、「もう一人の自分」という設定があった。

 

当時は単に面白いフィクション設定だとしか思っていなかったが、今思えば、この“もう一人の自分”という概念は、案外普遍的なテーマなのかもしれない

 

実際、僕の中にも「感情的な自分」とは別に、やたらと理性的ぶって、しかも冷笑的で、僕に対して非常に厳しい部分があると感じることがままある。

 

ひとつの出来事に対して、二つの観点からの物言いが、同時に頭の中に浮かぶような感覚だ。しかも、片や感情的なのに、片や寒気がするほど感情がない。

 

その冷徹ともいえる分人は、30歳前後から強く自覚するようになった。そいつは正直、何をしたいのかよくわからない。ただ、それは確実に、存在している。

 

導入が長くなったが、今回はその“謎の分人”について、自分の整理をメイン目的として、一度言葉にしておきたいと思う。

 

 

「忘れたか?」

 

まず、この理性的で冷笑的な分人が何を言ってくるのかというと、要は一見すると単なる“逆張り”のような発言が多い。

 

ただし、的外れではない。むしろ的確で、「言われてみればその通りだな」と納得してしまう内容であることがほとんどだ。

 

たとえば最近、正直あまりやる気のなさそうに仕事をしている人を見かけたとき、内心イラッとした瞬間があった。

 

そのとき同時に、頭の中で「お前は人様の仕事に口を出せるほど高尚な人間じゃないだろう」という声が聞こえた。

 

そして、なぜかその声に対して「確かにそうだな」と思ってしまう自分がいた。結果として感情的な沸騰は即座に鎮火はできたのだが、十全でこれが良かったのだろうか?

 

また、日課である散歩中にすれ違った女性を見て、ふと何気なく「綺麗な人だな」とほんの一瞬感じた際にも、そいつは脳内に出てきた。

 

「お前はそんなことを思うことすらおこがましいほど、あの女性とは雲泥どころか月とスッポンほどの価値の差があることがわからないのか?」とそいつは語った。

 

しかも口撃はそれで止まらなかった。「あのクラスの女性なら年収1000万あってようやく口説き落とせるレベルだろ?」という手厳しい声もした。

 

「お前が持ちうる価値全てを指で数えて合算してみろ。全然足りてないだろ?そのことを忘れたわけじゃないだろ?」と畳みかけてくる感じ。ただ・・僕はそれに納得した。

 

―そうした“声”は、全てが全て、どこか突き刺すような表現を含んでいる。だが不思議と、全く腹が立たない。むしろ、「すげぇな」と好意的に思うことさえある。

 

本来なら言い方にはムッとしてもおかしくないが、なぜか反発する気持ちがわかず、すっと自分の中に染み込んでくるような感覚がある

 

こういった二重性の感覚は、三島由紀夫の『仮面の告白』中盤にも似た描写があった記憶がある。この辺りの話は、「そうそうそうそう!」という興奮と共に読んだほどだ。

 

主人公が“園子”という女性に対しての想いに一人悶々とする場面で、低い声の冷静なメタ的語りが現れる場面だ。僕はそれを読んだとき、自分の感覚と似ていると感じた。

 

もちろん僕に二重人格があるという話ではないし、この冷笑的な分人が顕在意識を乗っ取るような経験もない。

 

あくまで判断の瞬間にぬらりと割り込んでくるだけであり、そしてすっといなくなる。だから後々振り返っての検証が困難なこともあり、その正体はよくわかっていない

 

この分人は、いったい何のために生まれ、どこで形成され、なぜ僕の中から消えないのか。それは今の僕には、まるで説明がつかない。

 

ただ、このような“冷笑視点”が頻繁に発動していること自体が、最近になってようやく明確に意識できるようになった。正直、それ自体が僕にとっては新しい発見だった。

 

とはいえまだまだ内省の日も深さも浅いため、語るネタとしてはまだ掘りきれていない部分があまりにも沢山ある。だが、このまま放置しておくのも嫌だった。

 

だから今回は、この分人についての小さな分析を、こうして書き残しておくことにした。ということで、今日はこの辺で。

 

 

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