精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

「雨が降っても自分のせい」というのは一流のメンタリティだと納得。

最近、やや今更感もあるが、D・カーネギーの「人を動かす」を読み進めている。響きだけならどこかマニピュレイトしている感じがあるが、実際は全然違う。

 

僕なりの解釈だが、「人が心のシャッターを閉ざすトリガー」と、「心を許せる相手の共通点」を、具体例を通じて平易に教えてくれる、そんな名著だと感じている

まだ読んだのは全体の三分の二なのだが、そこまでに登場したエピソードや教えを読んでいくうちに、僕の中で、ある言葉の意味合いが、また更新された。

 

それはつい最近も記事にした、「雨が降っても自分のせい」という言葉だ。この言葉は、人間心理の一番深いところを知る人だから言える、至極の名言なのではないか

jukukoshinohibi.hatenadiary.com

 

今日はなるべく独善的にならないよう気を付けながら、僕が改めて思うようになったことを書いていく。

 

 

「悪いのは自分と思っておく」という言葉の懐の大きさたるや。

「人を動かす」を読んでいるとすぐに気付くのだが、基本的に人望や器の大きさにおいて、”対決・対立は論外”というスタンスが説かれている印象だ。

 

例えばどんなクレームや難癖をつけられても、静かに耳を傾けて、相手の感情が鎮火するまで丁寧に待つ。味方だというメッセージを伝えながら、ただ待つのだ。

 

あるいは、たとえ客観的に見てもそうで無かろうと、自分の非をなんとか認めて、相手と対立しているという状態を解除する

 

猛牛という相手の怒りをひらりといなし、そこから始めて対話を行うというスタンスの人が非常に多い印象なのだ。つまり、他責・非難を徹底的に”しない”のである。

 

リンカーンなどもその立場を貫いたそうだが、その根底にあるのは決して”甘さ”ではなく、とてつもない深さと広さで現実を見えているという懐の深さ、器の大きさだ

 

「相手を論破して、何が得られるのか?」という一言が全てを物語っている。相手に対して土俵を割り、対話ができれば得られるものに比べれば、あまりにも矮小なのだ。

 

相手をヨイショすることで、相手は「勝ったw」と胸を聳やかせ、ワッハッハと笑い、気分良く目の前から居なくなったり、こちらに有利な条件を出したりするだろう。

 

―ただしそれは、その人の手のひらの上で、なのだが。そう思えば、目先の勝った・負けたにこだわる人たちのチンケさが、まざまざと浮き彫りになるように思う。

 

目の前にいる人、目の前にある状況に対して、対立・対決・不平不満をけしかける闘争モードにある限り、絶対にできない芸当だ。プライドが高すぎる際も同様か。

 

そのモードを解除し、「より広い目で物事を判断し、より確実な成果を得るために、どういう言動をとるか」を見つめ直せる人は、とてつもなく強い

 

そしてここからがミソなのだが、「全てを自分のせい」に考えておくと、そのフィルターを通して物事が見える。自然と土俵を割るための物言いが、閃きやすくなるのだ。

 

これは何も自分を卑下することは意味しない。というより器が大きい人は、相手が超えてはいけないラインを超えてきたら、冷徹に対応する強さも併せ持っている

 

ただし、そこさえ超えてこない限り、全ては些細なことだと思っている節さえ感じる。アンチコメントに「ありがとね」と言える強さは、ここにあるのかと思われる。

 

―僕もまだまだ小物であり、どうしても理不尽な出来事や物言いに相対すると、「悪いあの人」「可哀そうな私」というフィルターが発動するように思う。

 

だが、「雨が降っても自分のせい」と思っていた方が、結果早く物事は平和に収束するのだ。相手が僕を個人攻撃しようが、僕がそう思わなければいいだけの話である。

 

・・余談だが、ここまで書きつつ、どこかで読んだ実践哲学に似ているとふと思った。そして気づいた。「ヤクザ」だ。

 

粗野で凶暴なイメージがある方々だが、理不尽の中で実益を取り続けるために構築された実践哲学をまとめた本があり、そこにあった教えとのリンクを強く感じている。

 

もっとも、これは今閃いた仮説なので、言葉にすることはちょっと難しいのだが。また折に触れて、言語化に挑みたいと思う。

 

では今日はこの辺で。

 

 

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