最近、「器の大きさ」や「懐の深さ」といった言葉の意味が、急激に更新されつつあるのを感じている。
ただ、これはまだ自分の中での気づきに過ぎず、明確に整理されたものではない。これは、D・カーネギーの『人を動かす』を読み進めていて、覚えた感覚だ。
この本はまだ最後まで読み終えてはいないが、そこに書かれているヒントを見ていくと、以前読んだ『ヤクザ式』シリーズの内容が頭に浮かび、強いリンクを感じた。
『ヤクザ式』シリーズとは、畏怖と人望という矛盾した評価・評判を、暴力だけでなく言葉の力で獲得している人達の実践心理を分析した本である。
元々は龍が如くにハマり始めた時期がためのタイトル買いだったが、以来折に触れて読み返す度、色々な発見や気づきが得られて面白いと感じている。
さて。僕が感じた、それらの人達と、いわゆる“器が大きい人”や“人望のある人”との共通点とは、果たして何なのか。
これに気付いたとき、自分の中で別々のネットワークだったものが、はっきりと繋がったのを感じた。今日はそんな、個人的にワクワクした話をまとめていく。
”なにが”大きくて深いのか?
その共通点とは、目の前のできごと自体の勝ちと負けに、あまりこだわっていないという点だ。というよりそもそも、勝負という図式に置いてさえいない気がしている。
彼らは時に、あえて相手に”勝ち”を譲るような態度を取り、明らかにつまらない話にさえ全力でリアクションをとって盛り上げる。
競争の構図からあっさりと降りて、相手に花を持たせる。それが、両者に共通して見られた特徴だった。
とはいえ、僕はそれの話を読んで、確かに「器の大きい人だ」と感じたものの、それは一見弱腰ではないか、と思うところもあった。だがそれもまた、視野狭窄だった。
なぜなら、“器が大きい”と言われる人たちは、目の前のやり取りで何を得て、何を失うかという「損得の判断に用いる基準」がとんでもなく広く、深く、長いためだ。
たとえば、いわゆるレスバで相手を言い負かし、相手が捨て台詞を吐いて引き下がったとしよう。これで自分は何を得るか。せいぜい、一時的なすっきり感だけだろう。
では、それと引き換えに失うものは何か。実はそれはとてつもなく多い。例えば、レスバに費やした時間もそうだし、無駄に敵を増やすこともそうだろう。
言い負かされた側が抱く復讐心はかなり厄介だ。時間差で思わぬところから邪魔をされて、未来の自分の足を思いきり引っ張られる可能性だってあるわけで。
そう考えると、目先のアホを叩きのめすことで未来に面倒な種をばらまくなんて、それだけのリスクを取る理由が正直まったく見つからない。
逆に、相手を立てて気分良くさせておけば、ほんの少しの「ムカつき」を我慢するだけで、大きなリターンが手に入ることもある。アホに絡まれなくなるだけでも御の字だ。
そして何より、器の大きな人たちは「相手に対して下手に出るとか、マジムカつく」という感情そのものすら持たないように見える。具体例は二つほど思い出す。
まずは【がさつ力】にあった話だが、せいじ氏の後輩には天性の人たらしがいるという。人望の篤さは、年長じゃから評すれば愛嬌や人たらしになるのだろう。
しかしそんな彼も、"自分が気に入らないと思った相手"との関係は、バッシーン!と躊躇なく切ってしまう部分もあるのだろうだ。
また、岡田斗司夫氏も放送の中で、「アホに絡まれたらとっとと反省文を表示するようにしている」と言っていた。これは弱腰なのか、どうか。
実をいうと、「反省文を出すというその程度の手間でアホからの攻撃を軽減できるっていうんなら、コスパが良いと思ってるんですよね」という理由なのだそうだ。
これはすなわち、「俺が反省文を出させたwww」という風にアンチ?を呵々大笑させておきながら、それは結局岡田斗司夫氏の掌の上、という構図なのだ。
他にも例を思い出した。誰の話かは忘れたが、それは「教えたがりの人」にどう接するか、という話だ。
曰く、基本は全力で好意を示し、キリの良いところで“じゃあ早速やってみますね”と言って離れ、何を言われたかは忘れてしまう、という人がいた。とても痛快だと思った。
あるいは、実行はするが「うまくいったらそれはそれでトク」だが、「失敗したらちゃんと見下す」という、ひろゆき氏による“上手なあしらい方”も印象的だった。
こうした手法に共通しているのは、相手との“敵対関係”を未然に回避しつつ、一見するとどこか”負けた感”もありながら、大局的には圧倒的な利を得ているという構図だ。
このような人々は、本当に懐が深く、器が大きい。なぜなら、見ているスケールが圧倒的に違うからだ。底が知れないからこそ、深く、そして大きいと評されるのだろう。
彼らは目の前の小さな勝ち負けにはほとんど興味がない。少なくとも、それを言い返したところで何が得られるかを冷静に計算し、そのうえでスルーしているように見える。
そして、そういう人物たちは、いずれ“神経質でいちいち噛みついてくる小物たち”と比べ物にならないほど恵まれた生活を送るようになる。
それは結果として、生きているだけで相手をみじめに感じさせる、あるいは他者にそう思わせるという意味で、最上の復讐になっているのではないかとさえ思う。
もちろん、僕自身がそうした器を持っているなんて言えはしない。だが、こうした気づきを得られるたびに、少しずつでも意識的に、自分を変えていけたらと思っている。
ということで、今日はこの辺で。