精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

今の僕が「飢えている」もの。

今日は仕事とは関係のない話として、今の僕が飢えているものについて、整理を兼ねて言葉にしてみる。


”飢え”と書いたらどこかネガティブな感じがするが、正直これに気づいた時、自分の中に点在する別々の違和感が全て繋がりそうな予感がして、少しテンションが上がった

 

そもそも、この飢えとは何なのか。少し回り道になるが、説明する。僕はここ最近仕事をしていて、イライラといった攻撃的なネガティブ感情を抱くことはほぼなくなった


しかし、その代わりにそれを埋め合わせるように、別の感情を覚えていることに気づいている。その感情とは「寂しさ」である


ある資料によると、寂しさとは「”無い”ものに意識が向いている状態」と定義されている。この解釈自体、特に異論はない。


つまり、僕が今無意識下で欲しているけれど、現在の環境には存在しない”何か”があり、それに気づいているからこそ、寂しさを覚えているのだと仮説立てている

 

では、その「存在しない何か」とは何か。ヒントとなりそうなこととしては、僕が主に寂しさを感じるのは、仕事中のみである。


家で独りでいるとき、友人と会っているとき、趣味を共有する仲間と過ごしているときには、この手の寂しさはまったく感じない。

 

だが、仕事においては不思議なことに、同じ空間に働く人がいても、なぜか寂しさが生まれることが多い。・・だがその違和感の正体について、僕はすでに仮説を持っている

 

僕は何に飢えていて、それがために寂しさを覚えているのか。以下、未来の自分に向けた記事として、できるだけ詳述しておく。

 

 

引き受けたという覚悟は、強がりに過ぎないのか?

 


それは「共感」である。実際、我ながら僕は仕事に対して、この時代には稀有な熱量で、真面目に取り組んでいるつもりだ。


例えば言われずとも多くの数値を計算したり調査したりして把握し、支店長に過ぎないのに経営者的な観点を得ようと四苦八苦。

 

目先の利益・不利益を超えた先の構図が気になって仕方なく、だからこそ様々なことを常日頃からキャパオーバー寸前まで考えながら、自分を追い込むように働いている。


・・・これは完全にセルフブラック労働であり、他人に同じことを求めるのは法的にも倫理的にも、確実にアウトである。そういう価値観の押しつけを、僕は人にしない。

 

しかし、正直に言うと・・・・周りを見て、客観的に考えても、「働かなさすぎでは?」「それによる周りの影響を考えなさすぎでは?」と思ってしまうことはある


ただ、それらに苛立つだけという段階はすでに通り過ぎていて、今はそれを愚痴より上の文脈で汲んでくれる人が周りにいないという事実に対し、寂しさを感じているのだ。

 

つまり、僕が今欲している感覚とは、「わかり合えた」というあの刹那の瞬間である。
少なくとも2025年、仕事をしていてその感覚を覚えたことは一度もない


現状、”仕事”とはすなわち、自分で設計したゲームを自分でクリアして、独りで「だめ」とか「よし」とか、言っているだけだ。それは当然、虚しさを伴う。

 

だからといって、それこそ「彼女を作って寂しさを埋めるぞ」と短絡的に考えるタイプでもない。そういう寂しさとは性質を異としているからだ。


僕は一人の時間が好きだし、馴れ合いともいえる、不必要にウェットな他人とのつながりそのものを欲しているわけでもない。


あくまでも僕が求めているのは「共感しあえたという実感」だ。飢えているとか、渇望していると言っても過言ではない。

 

今の職場で、その感覚を分かち合えそうな人がまったくいないわけではないが、その人と会うのは週に1度、10分程度である以上、深いところまで話すことは難しい。

 

今の僕には、「この人は自分の言うことを分かってくれるだろう」という感覚がまったくない。というよりどこかで書いたが、僕は自分を理解してもらうことを諦めている

 

そのための努力をはっきりと徒労と思っているのに、それでもわかってもらえることに飢えているというのはどういうことだろうか。

 

自分の中での矛盾点にこそ、大事な価値観が眠っていると言われる。それは何なのか、この問いは、思った何倍も深く、暗いのかもしれない。

 

今日は、そんな愚痴のような話で終わりにする。

 

 

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