精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

斜に構えたくなければ、「自分がハマれるもの」を大事にしよう。

最近読んだ以下のインタビューによって、色々と自分の中で取り留めのない問いが浮かび続けている。

r25.jp

 

「物事を俯瞰してしまって楽しめない」という若者世代の発言が飛び出すのだが、ここだけ切り取ってしまうと、「そんな俺カッコいいでしょ」感をどうしても覚える。

 

だが、あらゆることに感情的になってしまうのも、あらゆる扇情的なことに乗せられてしまうのも、それはそれで人生の在り方としていくら何でもブレブレ過ぎるなと。

 

そういうわけで僕は基本的に、「ヤバい経済学」をリスペクトしているのもあり、物事の裏側や仕組み・構造を、なるべく感情を排してみるのが癖づいている

 

―だが、こういう俯瞰・達観を意識して世界を見ている状態は、つまり「斜に構えて、どこか冷静な自分に酔っている」感じに、どうしても思えてくる

 

そうなると、その言動はどこかイタくて仕方がない。とはいえ感情に操られるままウッピョー!とはしゃぐには、僕ももう30代前半なので、色んなものが追い付かない。

 

こういう相反する感情や状態とどう折り合いをつけるのか。その折衷は可能なのか。そう思っていたところ、パッと気づいた。普通に可能である、と。

 

今日はそんな気づきをつらつらと書いていく。

 

 

「ハマれるものがある」という一点さえあればいい。

 

「ただ斜に構えているだけ」の人かそうでないかを分ける一点は、「素直に入れ込める何かを持っているか否か」にあると僕は考えている

 

「こんなのにハマるとか、俺はそんなに幼稚じゃないぜ」という矜持の人は、その発言がため、自分に対しても「ハマる」という行為を許せなくなっている気がしている

 

なぜなら、なにかに入れ込んだ時点で即ち自己否定になってしまうからだ。いわゆる、虐められる側になりたくなければ、虐める側に立つべし、という構図と同じだ。

 

逆に言えば、「何かハマれるものがあり、それに興じる時間がたまにある人」は、別に「俺って斜に構えてるぶってない・・?」と不安になる必要は無さそうである。

 

実際佐渡島庸平氏の著書はすごく論理的・理知的な文体が特徴だが、今日のコルクなどの漫画を見ていると、時折稚気がむき出しになるエピソードが紹介されている。

 

物事を俯瞰し、その構造を論理的に理解したいという人はクールでカッコいい印象を持つが、そこに稚気が同居している人が、本当に魅力的なのだろうと僕は思う。

 

「斜に構える」の語源とは。

 

ここでふと気になったので、「斜に構える」という言葉自体の意味を調べてみた。元々は剣道に関する用語だと知り、ちょっと意外だと感じた。

 

1 剣道で、刀を斜めに構える。

 

2 身構える。改まった態度をする。

「風上へ—・え、糸のように目を細くして立ち竦んでいる」〈里見弴・多情仏心〉

 

3 物事に正対しないで、皮肉やからかいなどの態度で臨む

「世間に対して—・える」

 

僕が感じている意味合いはつまり3だろう。正対せず、皮肉やからかいなどの態度で臨む、と。ここでミソなのが、”正対せず”の部分だろう。

 

そもそもその対象への解像度や理解が足りていない状態で、「どうせ大したことない、俺の方が上だ」というメタを伴った状態で冷ややかな観察を行っている、と。

 

これが「斜に構える」の正体なのだとしたら、これは全てに対してやっている人はちょっと論外として、部分部分だと誰でもやり得ることなのではないか。

 

酸っぱいブドウの逸話のように、自分が良く知らないものについて「知るまでもない」という意味付けを施して、インプット・アウトプットを拒否し、見下す。

 

逆に言えば、”自分がそう思ってしまう対象が見つかった際は、それは自分の無知が形を変えて顕在化しているだけ”という風に、さらに解釈を変えることもできそうだ。

 

斜に構えていることを否定もせず、かといってそれをアイデンティティにもしない。そういう意識さえ持っていれば、自分がヘンな方に拗れるリスクは相当減らせるだろう。

 

そういう意味では、僕は僕の中に稚気があることをしっかり自覚しているので、まだまだ大丈夫ということか。これはこれで心強い話である。

 

ということで今日はこの辺で。

 

 

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