多分昨日アップされていると思うが、「やる気のある無能」という、なかなか怖い言葉がある。
この言葉を見て、自分もそうではないかという疑念が少し浮かび、それについて少し考えた、というのがその記事のざっくりとした内容だ。
その際、「やる気のない無能の定義」として挙げられていた特徴を眺めているうちに、もう一つ気づいたことがある。
それは、世間が「無能」と評する人の条件として、仕事ができない、他人のことを考えないといったわかり易い実害が一般的だが、決してそれだけではないというものだ。
もっと根本として、メンタル、もとい思考のフレームワーク自体に、重症なものが隠れている。今日はそれをなるべく言語化してみたい。
「こんな俺、どう?」
それは乱暴に言えば、「承認欲求に支配されていること」である。つらつらと並べられた定義(もとい実害)を見た際、真っ先にこの点が気になったほどだ。
「やる気のある無能」とされる方々は、頑張っている自分を「すごいね」と言ってほしい。そんな動機が、言動の裏に、全く隠されていない状態で見えている。
もちろん、それによって業績が上がるわけでも、作業効率が上がるわけでもない。ただ「評価されるかどうか」だけが目的になっている点に、僕は強い違和感を覚える。
そして、評価されるためならば、たとえ組織に面倒ごとを持ち込むような振る舞いをしても、厭わない人がいる。
周囲にとって迷惑であっても、自分が「働いている」と見なされたいという欲求が最優先されているタイプだ。こうなると、本当に組織の癌と言われても仕方がない。
このように、すべての行動や言動が「皆のため」ではなく「自分がスゴイと見られるため」だとわかる人は、「やる気の有無」はさておき「無能」と思われる気がする。
とはいえ、承認欲求を原動力にして、自分を成長させる方向に努力するのであれば、それは全く問題ないと思っている。
問題は、向上心もないまま、すごく”見せる”ための努力だけを重ねている場合だ。いわば、表面上の演技力、いわばメッキの部分だけを綺麗にしているイメージである。
そういった人々に決定的に欠けているのは、自己観察・自己内省の視点だ。他人の目線ばかり気にしつつも、現状の自分がどうあるかには思いが至らない。
そのくせ、思ったような反応をされないと「相手が悪い」と結論づけてしまう。自分への指摘を嫉妬と翻訳する。この矛盾が同居した感じが、居た堪れなさの根源だろう。
このタイプの人間は、僕の感覚ではどう捉えても「有能」ではないと感じる。実際、こうした人が組織に与える害は、行動によって顕在化しやすいという印象がある。
だからこそ、「やる気のある無能」という人々の存在は、被害者の報告によって初めて可視化されることが多い印象がある。身をもって知る、とでもいうべきか。
僕は今のところ、こうした人々から直接的な害を受けたことはない。ただ、言動の出発点が「どう見られるか」である場合、その全てが面倒くさいと感じるのは事実である。
しかし、そんな思いを僕自身が微塵も持っていないかどうかと言われると、それには常に疑問符をつけておくべきだろう。そもそも承認とは本能的に求めるものだからだ。
だからこそ、改めて思う。「そもそも、今の自分の思考は、”そうみられたいのか”、”そうしたいのか”」、その起点は冷静に意識・分析できるようにありたい。
それは即ち、自分の心の声に、もっと素直に耳を傾けられるようにあり続けることでもある。
いわゆる残念とされる人たちの生態を読んで、そんなことを改めて思った。ということで今日はこの辺で。