「雨が降っても自分のせいだ」というフレーズは、僕の中ではここ数ヶ月、何度も取り上げては考えてきたテーマである。
それらをまとめて、また読書や経験を重ねる中で、この言葉の解像度がさらに深まってきた感覚がある。そして今回、ようやく自分なりの“結論めいたもの”に辿り着いた。
とはいえ、この言葉を心に据えることで得られるものは、「諦観」や「納得」といった静かな境地に近い。誤解も招きやすく言語化は難しいが、可能な限り言葉にしてみる。
以下、そんなお話である。
大体のことは俺のせい。
まず、「雨が降っても自分のせい」という姿勢を持っておくと、結果的に自分自身の感情の処理や、他者への対応が建設的な方向へ進みやすくなると思っている。
なぜなら、実際に起きたあらゆる事象に対して、自分が“正しかった”ことはとても少ないからだ。むしろ、間違っていたと認識するケースの方が圧倒的に多かった。
それこそ過去のブログを見返した際、クレームや理不尽な扱いに対して怒りを覚えた記事が残っていても、同情ではなく未熟さや対応の甘さに気付くことがしばしばだ。
そう考えると、「自分が正しい」という認識そのものが、一種のバイアス、あるいはただの感情的な反応である可能性が高いと思えて仕方ないわけである。
おそらく心理学的に名称がついているであろうその思考パターンは、生存戦略の一部として仕組まれた原始的な反応に過ぎない。いわば動物的な頭の使い方なのだ。
だからこそ、社会的動物である人間は、「自分が正義」という立場に固執すると、結果的に人望を失い、トラブルを招き、精神的な成長が止まるのではないかと思うのだ。
しかし、「雨が降っても自分のせいだ」という前提を持つと、「具体的にどこが悪かっただろう」という点に意識が向きやすくなる。
例えば、雨が降ったことで何が不利益になったか。雨に打たれたことがそうだったら、傘を用意しておかなかったことは落ち度だな、と。そう思った方が学びになる。
結果、自分の未熟さを見つめ直すことができ、他者を許す心が生まれたり、自分自身の落ち度を認め、改善策を思考できたりするようになると思うのだ。
もちろん、この考え方にもリスクはある。自己重要感や自己肯定感が育っていない状態で字面通りこの思考を続ければ、いずれ精神を病む恐れもあるだろう。
だからこそ大切なのは、あくまで「自分がコントロールできる範囲」に注目し、自責を“責め”ではなく“分析”として扱うことである。
クレームがあっても、あの状況下で自分に何ができたか。他の可能性はあったか。どんな手が打てたか。どのような声かけができたか。譲歩すべきだった点はどこか。
そのような問いを通じて得た学びにこそ、深い価値がある。僕はまだ33歳の若造だが、強くそう思う。だが、やはり人は弱く、すぐに人のせい、運のせいにしたくなる。
僕にとって、自分がラクな方に逃げたくなる退路を強制的に断ち切って、思考を建設的な方へ無理矢理向ける一言こそ「雨が降っても自分のせい」という言葉である。
この発想は禅問答のように、受け取った人が自らの経験・知恵を基に考え抜き、その果てに腑に落ちて、初めて効果を発揮するタイプの哲学なのかもしれない。
―それに、そういう風に構えていた方が、本当の意味で自分を責めずに済む気がしている。自責とは、恥という言葉で分析を止めて、自分の内に封じ込めることだ。
そう思うと、今日は天気が悪いのだが、それもまた僕のせいと思って「さてどうする」と考えてみようと思う。では今日はこの辺で。