理想の環境。それは一見、あるのが自然で、ないのが異常という話にも聞こえる。勉強でいえば静かな環境、仕事でいえば集中できる時間と空間というところか。
しかし実際には、「理想の環境じゃないので頑張れません、結果も出ません」といった言い訳に使ってしまうことがある。最近、この弱さを自分事としてよく感じる。
「こうであってほしい」という希望自体は、もちろん悪いモノではないが、多くの場合、その理想は漠然としていて、しかも過剰であるものだ。
いわば“白馬の王子様”や“幸せの青い鳥”を待つような話である。 そしてそれを待っている限りは、「だから結果が出ません」という帰結が容易に引かれてしまう。
この構図はとても危うい。何より単なる思考停止の状態に過ぎない。だから最近は意識的に自分がそのスタンスになっていないか、時折振り返る時間さえ設けている。
今日はそんな、「理想」に対する警鐘と言っては大げさだが、僕が危惧していることをつらつらと書いてみる。
【理想】なんてのは、無理が前提。
まずは「理想」という言葉の意味を紹介する。思った以上に「壮大なもの」という印象を僕は持つが、皆様はいかがだろうか。
1 人が心に描き求め続ける、それ以上望むところのない完全なもの。そうあってほしいと思う最高の状態。「—を高く掲げる」⇔現実。
2 理性によって考えうる最も完全な状態。また、実現したいと願う最善の目標あるいは状態。
若い頃はとんでもなく高い理想、もとい荒唐無稽な環境を浮かべては、そうでない現状を嘆いていたが…さすがに今は、それほどでもなくなった。
しかし、自分では譲歩・妥協しているつもりであっても、冷静に考えればだいぶ虫のいい条件を求めてしまっているときがある。
自己評価による理想をいくら柔軟にしても、「現状に対して過剰な期待を抱いている限り」、それは現実ではなく“理想”のままなのだ。
例えば、今日も本来は定休日である。だが、僕は「休んでいるよりも仕事をした方が有益である」と感じたため、実質的にはこの曜日は勤務日にしている。
しかし、本来は定休日であるはずなのだが、当然のように仕事の連絡は入ってくる。さすがに社内のそれはほぼ来ないが、顧客からのそれは日曜だろうがやってくる。
もちろん、「休みの日に仕事の連絡をしてはいけない」とか、「仕事の連絡を承る必要は無い」という”理想論”には、僕も一定の共感はある。
だが、実際には「そうはいっても対応せざるを得ない」連絡はどうしてもやってくるわけで。責任者である限りそれもまた責務だが、冷静に考えれば当然のことである。
他の例でいえば、結構重たい企画書や事業計画など、集中して考えたいテーマや、腰を据えて整理したいタスクもある。
それに取り組むため、最低でも25分、できれば1時間ほどの、誰にも邪魔されないまとまった空き時間がほしい、と思うこともある。
だが、現実としてそれは極めて贅沢な願いであり、日々の業務に追われるなかで確保できることはほとんどない。
ではどうするか。僕が出した答えは、そんな理想を待つのではなく、「10分 × 4回」でなんとかできるよう、仕事自体を分解できるよう頭を切り替えることである。
つまり、“理想の状況が来るまで動かない”のではなく、“理想が来ない前提で最適化する”方がよっぽどマシだと捉え直すことで、ようやく建設的な思考になったのだ。
とはいえ、人間は弱い生き物だ。これだけ論理的に納得したうえでも、「今の状況は運が悪かっただけだ」と思いたくなる瞬間も、山ほどある。
しかし、雨が降っても自分のせいと思うくらいで丁度いいというのがこの世の理である以上、いくら、どれだけ、状況のせいにしても、事態はまるで好転しない。
ならば、不満を吐いている時間さえ大切に活用し、自分が置かれた現実の中でどう最適化を図れるかを考え、結果を出していくしかない。どうしてもそこに至る。
そして、僕の場合、今は変なアツさがある。業績が中途半端な状態で「処遇を良くしてほしい」とは言えないという風に。
せめて自分の校舎だけでも、自分ともう一人分の給料くらいは稼げる状態にしなければ、この職務をやっている意味がないとすら感じている。
この熱量は大切にしたい価値観の一部だが、その熱量が他人への攻撃や、無用な責任転嫁に向かわぬよう、常に自己監視しておく必要がある。
そう自分に言い聞かせている限り、理想ってのをひたすら待っているうちに、老いて、錆びて、朽ちるなんてことは起きないのではないかと、とりあえずの納得はしている。
ということで今日はこの辺で。