精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

「死ぬほど働く」を科学する。

今日は「死ぬほど働く」を科学するという、やや挑戦的なテーマについて、話をしてみたいと思う。これは時代に対して真っ向から反抗するような話題ではあるが・・。

 

そもそも、長時間労働はナンセンス」という価値観は、いつから広まっていったのか。きっかけは定かではないが、僕が大学在学中に第一次ブームが来たと思っている。

 

確かブラック企業に勤める人の実態を記した本だったと思うが、それが労働環境改善・是正に強い意識を向けさせる、最初のきっかけだったように感じている。

 

当時は、労働者の権利を守るべきだという主張がいわば社会問題となり、劣悪な環境を強いる会社は軒並み”ブラック企業”と呼ばれ、次々とやり玉に挙げられていった。

 

たとえば、ワタミグループを筆頭に、後にはすき家の運営企業や電通なども2ちゃんで祭りになっていた記憶がある。

 

中でもワタミグループは、「365日、死ぬまで働け」といった社訓か理念かよくわからない標語のテロップが紹介され、ブラックの象徴として扱われた場面を記憶している

 

この流れを経て、「ラクに生きよう」「仕事なんかしなくていい」「週休3日でもよくないか」といった空気感が社会に浸透し、働くことに対して冷めた見方をする人が増えた

 

しかし、2010年前後だろうか、「頑張ることはダサい」という感じのところまで至ったあたりで、その反動ともいえる勢力が台頭したのを覚えている。、

 

「いや、結局は血の滲む努力をしてナンボだ」というマッチョな思想を体現する、例えば堀江貴文氏、箕輪厚介氏、西野亮廣氏らが注目を集め始めたのだ。

 

ただし、さらにコロナ禍を経て「頑張ったところで・・」と熱い人たちを斜に構える論調が台頭し、ひろゆき氏のように論破を狙う勢力が、これまた支持を得るようになった。

 

・・こうした価値観の変動を当事者として体感してきたわけだが、そのうえで僕の中では、一貫している感覚がある。

 

それは、「結局”正しい努力”を、”他人からブラック労働と言われながらも自分が納得した状態で積み重ねている人間”が、最終的には勝っている」というものである。

 

そのうえで僕は、まだまだ狂気のラインまで遠いところにいて、せめてその世界が垣間見えるところまで行ってみたいという好奇心が胸の内に渦巻いている

 

今日はそんな話を、以下書いていこう。

 

 

結局、「お前はどっちを取るんだ?」という話である。

 

たしかに、「週休2日で定時帰宅、給料もイイ」という働き方が成立する人もいる。しかしそれは、そもそも組織が大規模かつ安定的である場合に限られると思えてならない。

 

たとえば就職倍率の高い大企業や公的機関に属しているような人たちだ。こういう風に、大勢の人が働くような巨大組織においては、その願望は比較的通りやすいと思う。

 

しかしながら、中小企業や自営業者、個人経営の店舗オーナーのように、ほぼ一本独鈷で戦わざるを得ない環境にいる場合、「休み優先だとマジ潰れる」と肌で感じる

 

つまり、ある程度強固な組織に守られた人間と、ゼロから叩き上げで働いてきた人間とでは、労働観が相容れるはずがないというただそれだけなのだと思う。

 

そして自分がどちら側に属しているか、どちらの方が居心地良いかを冷静に見極めたうえで、どちらの価値観に耳を傾けるかを決めない限り、適切な行動にはつながらない

 

その点、僕自身の立場は明白だ。週休2日、福利厚生完備、有給完全取得―そんな労働環境を魅力的とは思わない。今の僕には不要だし、望んでもいない。

 

だが、いずれ自分なり校舎なりに余裕ができたときには、僕以外の方々には、それをなるべく与えられるようにしたいと本気で思っている。実際、もうその意識だ。

 

例えば、ある方が「有給を取るかどうか」で迷っている様子を見て、僕がシフトを調整し、その人を休ませたことがある。その人は僕より10個年上だが、マジ関係ない。

 

”僕にとって”は、休みや福利厚生は二の次・三の次でどうでもいいことなのだが、先輩・同僚・部下にそれを同じ温度で押し付けたくはない。それが、僕の労働観である。

 

だから、「週休2日は当たり前だよね」という主張に対しては、「うん、そういう環境を手に入れられるよう、頑張ってください」としか言えない。僕は当事者ではない。

 

実際、今は期末テスト期間が始まり、しかも中学校ごとに日程が異なっているため、ちょっとした繁忙期が連続する形となり、小忙しさがしばらく継続する感じとなる。

 

僕自身は当たり前のように、20数連勤するつもりでいるのだが、それに他者を巻き込む気はさらさらない。その理由は、やはり僕の原体験にあると思っている。

 

引き続き、ある意味クレイジーな僕のその原体験と、傍目から見て「死ぬほど働いている」方々を見て思うことを、書いていこう。

 

過去の自分を超えたい。死ぬほど働いた先の世界を見たい。

 

どこかで書いた話だが、僕は1日15時間働いていた時期や、月休み3日で毎日12時間働いた時期がある。その頃と比べれば、今の労働時間はマジで大したことがない。

 

それゆえ、今の自分に対しては「まだリソースを使い切っていない」と感じてしまう。そして、それが勿体なくて仕方ないという感覚をも生んでいる。

 

例えば、限界まで仕事を詰め込んだ先にはどんな世界が見えるのか、僕はどうしても知ってみたい。起業家の人たちが爆裂労働の果てに何を見て何を感じたか、興味が強い。

 

すなわち、僕は死ぬほど働くということに、どこかで強い憧れを抱いている。狂気じみた世界に一度踏み込み、そこに何があるのかを見て、そして帰ってきたいのだ。

 

関連する話として、最近よく観ている筋トレ系YouTuberのルーティン動画が、僕のその憧れに拍車をかけている。

 

ステージの上でバキバキの身体を披露する彼らは、大会の数か月前から修行僧のような生活を送り、摂取カロリーを極端に制限し、毎日40分以上の有酸素運動を続ける。

 

口数も少なくなり、頬もこけて目元も窪み、満身創痍の状態でステージに向かい、その勝負の場で、たった一瞬の、そして尊い、最高のパフォーマンスを見せる

 

その“ピーク”は1日も持たずに崩れ去るが、そのために積み上げた数百時間の努力は、紛れもない事実として残る。

 

狂気としか思えない日々なのに、動画で見るかぎりはどこか静謐で、満ち足りた時間が流れているように感じる。

 

・・・僕もそういった、人生丸ごとゾーンに入ったような時間を体験してみたい。そして、そこに至るための最も身近で入れ込めるツールこそが、僕にとっては“仕事”なのだ。

 

あとは、どうやってその境地に達するかの工夫次第だ。漠然としているが、シンプルに考えると、僕にはまだ負荷が足りない。時間と覚悟と言ってもいい。

 

だからといって短絡的に、ただ労働時間ばかり増やしてもダメだ。かなりの高密度で、それにだけ特化した日々を、あくまでも淡々と過ごす必要があるのではないか。

 

令和の時代には珍しい考え方かもしれないが、僕は「死ぬほど働く」という世界線に、心から興味を持っている

 

人生すべてを注ぎ込んだその先に、どれほど”静かな世界”が広がっているのか。それを見てみたいと強く思っている。

 

では今日はこの辺で。

 

 

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